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'''幇間'''(ほうかん、たいこ)は、宴席やお座敷などの酒席において主や客の機嫌をとり、自ら芸を見せ、さらに[[芸者]]・[[舞妓]]を助けて場を盛り上げる職業。歴史的には男性の職業
== 解説 ==
幇間は別名「'''太鼓持ち'''(たいこもち)」、「男芸者」などと言い、また敬意を持って「太夫衆」とも呼ばれた。歴史は古く[[豊臣秀吉]]の[[御伽衆]]を務めたと言われる[[曽呂利新左衛門]]という非常に機知に富んだ武士を祖とすると伝えられている。秀吉の機嫌が悪そうな時は、「太閤、いかがで、太閤、いかがで」と、太閤を持ち上げて機嫌取りをしていたため、機嫌取りが上手な人を「太閤持ち」から「太鼓持ち」と言うようになったと言われている。ただし曽呂利新左衛門は実在する人物かどうかも含めて謎が多い人物なので、単なる伝承である可能性も高い。鳴り物である太鼓を叩いて踊ることからそう呼ばれるようになったとする説などがある。
専業の幇間は[[元禄]]の頃(1688年 - 1704年)に始まり、揚代を得て職業的に確立するのは[[宝暦]](1751年 - 1764年)の頃とされる。江戸時代では吉原の幇間を一流としていたと伝えられる。呼び名の語源は「[[太閤]](秀吉)を持ち上げる」というところから転じて「太閤持ち→太鼓持ち」と呼ばれるようになったという説や、鳴り物である太鼓を叩いて踊ることからそう呼ばれるようになったとする説などがある。▼
▲専業の幇間は[[元禄]]の頃(1688年 - 1704年)に始まり、揚代を得て職業的に確立するのは[[宝暦]](1751年 - 1764年)の頃とされる。江戸時代では吉原の幇間を一流としていたと伝えられ
現在では東京に数名、関西には1名しかおらず絶滅寸前の職業とまで言われ、後継者の減少から伝承されてきた「お座敷芸」が失伝されつつある。[[古典落語]]では江戸・上方を問わず多くの噺に登場し、その雰囲気をうかがい知ることができる。[[台東区]][[浅草]]にある[[浅草寺]]の本坊[[伝法院]]には[[1963年]]に建立された'''幇間塚'''がある。幇間の第一人者としては[[悠玄亭玉介]]が挙げられる。男性の職業として「らしくない仕事」の代名詞とされた時代もあった。
▲本来、[[太鼓持ち]]は俗称で、幇間が正式名称である。「幇」は助けるという意味で、「間」は人と人の間、すなわち人間関係をあらわす意味。この二つの言葉が合わさって、人間関係を助けるという意味となる。宴会の席で接待する側とされる側の間、客同士や客と芸者の間、雰囲気が途切れた時楽しく盛り上げるために繋いでいく遊びの助っ人役が、幇間すなわち太鼓持ちである。
正式な「たいこ」は師匠について、芸名を貰い、住み込みで、師匠の身の回りの世話や雑用をこなしながら芸を磨く。通常は5~6年の修業を勤め、お礼奉公を一年で、正式な幇間となる。師匠は芸者置屋などを経営していることが多いが、芸者との恋愛は厳禁である。
もっとも、披露
▲正式な幇間は、芸者と同じように、芸者置屋に所属している。服装は、見栄の商売であるから、着流しの絹の柔らか物に、真夏でも羽織を着て、白足袋に雪駄、扇子をぱちぱち鳴らしながら、旦那に取り巻いた。
一方、正式な師匠に付かず、放蕩の果てに、見よう見まね
これは正式な芸人ではないが、「師匠」と呼ばれることも多かった。
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