「小倉藩」の版間の差分

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忠真は[[徳川家康]]の外曾孫(母は[[松平信康|徳川信康]]の娘)であり、以後小倉[[小笠原氏]]は西国[[譜代大名]]の筆頭として九州の玄関口を押さえる'''九州探題'''の任を受け[[外様大名]]の監視を行った(これが幕末動乱における小倉城落城の遠因ともなる)。忠真の家臣[[宮本伊織]](宮本武蔵の嗣子)は、父子ともに出陣した[[島原の乱]]の軍功等により知行4000石の小倉藩筆頭[[家老]]となり、以後宮本家が代々その地位を世襲した。
2代[[小笠原忠雄|忠雄]]は[[寛文]]7年([[1667年]])藩主襲封の際、弟の[[小笠原真方|真方]]に[[小倉藩#支藩|小倉新田藩(千束藩]]1万石を領内分藩させた。
 
[[享保]]15年([[1730年]])[[6月 (旧暦)|6月]]には、第3代藩主・[[小笠原忠基|忠基]]の二男[[小笠原長逵|長逵]]が、継嗣のいなかった播州[[安志藩]]初代藩主・[[小笠原長興]]の養子となり、同年12月に第2代藩主となる。以後、江戸時代の間を通じて小倉藩・小倉新田藩・安志藩の小笠原三家は継嗣の養子縁組等により関係を深め、小倉新田藩のみならず本来小笠原氏の嫡流であった安志藩もが小倉藩の分家筋のように位置付けられていくこととなった。
 
4代[[小笠原忠総|忠総]]は[[宝暦]]8年([[1758年]])城内に藩士の文武教練場として思永斎を設けた。これが後の[[藩校]]思永館となった。
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[[幕末]]の[[文久]]3年([[1863年]])には、海防強化のため[[関門海峡]]沿岸に葛葉台場・東浜台場・西浜台場等の[[砲台]]を建設した。この年には対岸の[[長州藩]]が関門海峡を通行する外国船に砲撃を行い、[[下関戦争]]につながってゆくが、[[江戸幕府|幕府]]は敵対行動を取っていない外国船への先制攻撃を指示しておらず、小倉藩は配備は敷いたものの戦闘行動は行っていない。また[[慶応]]元年([[1865年]])には[[蒸気船]]・[[飛龍丸]]を購入している。
 
[[長州征討]]では、小倉藩は幕府側の[[九州]]側最先鋒として第一次、第二次ともに参加した。元治元年(1864年)の第一次長州征討では長州藩が江戸幕府に対する恭順を示し、戦闘は発生しなかったが、慶応元年(1865年)の第二次長州征討(四境戦争)では、小倉藩は総督・[[小笠原長行]](同じ小笠原姓だが、[[唐津藩]]藩主で[[老中]])の指揮下で小倉口の先鋒として参戦した。この戦闘は幕府・小倉藩に不利に展開し、長州軍の領内侵攻により[[門司区|門司]]が制圧され、小笠原総督は事態を収拾することなく戦線を離脱し、他の九州諸藩も撤兵。孤立した小倉藩は慶応2年[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]([[1866年]][[9月9日]])小倉城に火を放ち(小倉城自焼は一説に熊本藩の竹崎律次郎の勧めとも)、[[田川郡]]香春(現・[[香春町]])に撤退した。香春撤退後も、家老[[島村志津摩]]を中心に軍を再編して金辺峠に拠り、高津尾を前線基地として長州軍に遊撃戦を挑み、一時は小倉城を奪還するに至ったが、今村、徳力、守恒、蒲生等の企救平野各地で敗れ、高津尾の決戦で金辺峠へ敗走した後、翌慶応3年([[1867年]])1月20日に停戦が成立した。

慶応3年3月に藩庁は正式に香春へ移り、'''香春藩'''と称することとなった。更に[[明治]]2年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]]([[1870年]][[1月25日]])には[[京都郡]]豊津(現・[[みやこ町]])に藩庁を移し、'''豊津藩'''となった。なお、藩庁として建設された[[豊津陣屋]]の建造物のうち、藩校表門が現存している。
 
明治4年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]])、[[廃藩置県]]により豊津県となった。のち、[[小倉県]]を経て福岡県に編入された。