「クロムウェルのアイルランド侵略」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Akasenbot (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる: 良質な記事へのリンク es:Conquista de Irlanda por Cromwell
85行目:
1641年のアイルランド反乱に関係した人は誰であっても処刑され、カトリック連合に加わったすべての人の土地は没収され、さらに数千人が奴隷として西インド諸島に移送された。戦争に加担しなかったカトリック地主は、補償としてコノートの土地を請求する権利があったにもかかわらず、彼らの土地は没収された。加えて、カトリックは都市に住むことを許されなかった。カトリック連合と国王派の連合軍で戦ったアイルランド人兵士は、かなりの数がスペインやフランスの軍で職を見つけるために国を去った。ウィリアム・ペティーはこの数を54,000人と推測している。カトリックの儀式は禁止され、聖職者の捕縛に対しては懸賞金が支給された。聖職者たちは見つかった場合処刑された。
 
長期議会は冒険家法に1642年署名したが、これは議会派の債権者は債務の返還を、アイルランドで没収された土地をその補償として請求できることが記されていた。さらに、アイルランドに従軍した議会派の兵士は賃金の代わりに、アイルランドで没収された土地を割り当てられる権利があったが、議会は賃金を完全に支払うことができなかった。その結果、ニューモデル軍の何千もの古参兵士がアイルランドに移住した。加えて、戦前からのプロテスタント移民は所有している土地を大きく増やした ([[アイルランドの植民地域|クロムウェル派の植民地域]] ([[:en:Plantations of Ireland#The Cromwellian Plantation|The Cromwellian Plantation]]) 参照)。戦争の前、アイルランド人カトリック教徒はアイルランド島全土の60%を所持していたが、[[イングランド王政復古]]の際カトリック国王派に補償がなされたときには、20%にまで低下していた。共和制時代の期間中にカトリック地主は8%にまで減っていた。さらに1660年の王政復古後でさえ、カトリック教徒は{{仮リンク|[[アイルランド議会 (1297-1800)|en|Parliament of Ireland|label=アイルランド議会}}]]はともかくとしてすべての官公庁から締め出されていた<ref>Lenihan, p. 111</ref>。
 
== 史的な議論 ==