「明経道」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
KMT (会話 | 投稿記録)
m {{subst:特定版削除済みノート2|YOSHI438およびYOSHI438/同一人物と思われる利用者による新規作成記事2}}
編集の要約なし
3行目:
明経試は必修の2経から計3問と他の2経から3または4問出されて計10問から出題され、6問以上合格する必要があった。
 
[[平安時代]]中期以降は、その地位も[[紀伝道]]を掌る[[文章博士]](元は明経道に附属して直講1名が回されたもの)の地位が上昇して[[明経博士]]を追い越したために本科としての地位を失った。それでも、明経道の本科としての意識は強く、[[明経博士]]を務めた[[十市有象]]([[中原氏]]の祖)による[[安和]]2年([[969年]])の解文には、[[紀伝道]]と[[明法道]]を「小道」と非難する一文が載せられている(『[[類聚符宣抄]]』所収)。また、[[紀伝道|文章生]]など他の学生に対しても一般常識としての儒学教養を求めたために他学生による明経道の講義の聴講が行われる場合が多かった。また、[[正暦]]4年([[993年]])には、明経博士[[中原致時]]の申請によって明経得業生に准じる地位として、8から10名でなる'''[[問者生|明経問者生]]'''が設置されて、試験に合格すれば得業生に准じる資格で官吏になることが出来た。
 
[[江戸時代]]には[[清原氏]]の子孫である[[舟橋家]]・[[伏原家]]が博士の職を世襲したが、儒教の中でも新興の[[宋学]]全盛の時代にあっては名目のみの官となっていった。
 
 
== 関連項目 ==
* [[儒教]]
* [[大学寮]]
* [[明経博士]]
* [[律令制]]
 
 
{{DEFAULTSORT:みようきようとう}}