「エディプスコンプレックス」の版間の差分

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エディプスコンプレックスには批判も多く、有名なものとしては「それは外向的な人間に限ったもので内向的な人間においてはそれに限らない」という[[カール・グスタフ・ユング]]の批判がある。
 
実際、エディプスコンプレックス理論は父性的な社会である西欧ではよく利用される理論であったが、母性的な社会である日本ではさほど感覚的に合わなかった。近親相姦願望が父性的なもに対する破壊願望に裏付けされているなどという理論に対し批判的だっ[[小此木啓吾]]は、[[阿闍世コンプレックス]]理論がの思想を日本では提唱流布れたりした。ただ、これに関しては[[家父長制]]が強すぎるためエディプスコンプレックスが見えなくなっているという反論や、[[阿闍世]]も実際は母親ではなく父王への反抗心だったという指摘もあるため批判も決いのかて少なく分からないままである
 
また、エディプスコンプレックスは父親が強いという事が前提であり、[[ブロニスワフ・マリノフスキ]]の「母権性社会」の話は、こういったことの反証として用いられる。精神分析家のルート・ウォルデックは、フロイトのフリース宛ての書簡を分析し、そもそもフロイト自身が、父親に対する憎悪を持たず、女性に対する恐れの方が大きく、母権制的な関係性を葬るが為に父権的なモノを導き、その内部の関係として父親殺しという身振りをしたのだとしている。
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なお[[ミシェル・フーコー]](1954)には[[リビドー]]などという概念は神話すれすれとして批判された。また、[[ジル・ドゥルーズ|ドゥルーズ]]=[[フェリックス・ガタリ|ガタリ]]『[[アンチ・オイディプス]]』(1972)には「禁止されている、だから望んでいる」というのは[[ダブル・バインド]]的で非生産的であり、本質的に生産的なものは「[[器官なき身体]]」であると述べている。『アンチ・オイディプス』ではエディプスコンプレックスを含んだ精神分析全体を徹底的に批判している。
 
1980年代には[[アメリカ]]で[[記憶論争]]が相次いだ。両親に性的被害を受けた記憶があったといった患者の訴えあったのだが、[[抑圧された記憶]]の中にそのような記憶があったといった訴えが中心であったため、フロイトの無意識の理論忠実に掘り起こして行った問題セラピストの誘導によるも出来事で、それは実際に起こったことの記憶ではないのではないかと批判された。このように実際の事件においてはエディプスコンプレックスや近親相姦を元にする考え方は危険視されたこともある。
 
== 参考文献 ==