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'''藤堂 平助'''(とうどう へいすけ、[[弘化]]元年([[1844年]]) - [[慶応]]3年[[11月18日 (旧暦)|11月18日]]([[1867年]][[12月13日]]))は、[[新選組]]八番組組長、のち[[御陵衛士]](高台寺党)。[[諱]]は宜虎(たかとら)。
== 来歴 ==
[[武蔵国]][[江戸]]出身。
[[武蔵国]][[江戸]]出身。[[諱]]は宜虎(たかとら)。[[永倉新八]]の同志連名記、及び京都在留当時の風聞書によれば、[[伊勢国|伊勢]][[津藩]]主[[藤堂高猷]]の[[落胤]]といわれているが真相は不明。また津藩の支藩である伊勢[[久居藩]]の家老[[藤堂八座]]の子とも云い、通称の「平助」は藤堂家功臣の名乗りを嗣いだものとも伝えられる。これは藤堂の佩刀であった上総介兼重と銘打たれた長刀が藤堂藩お抱え刀工であったためである(会津藩庁新撰組御一行刀改控より)。上総介兼重は一介の素浪人が持てるような(安価な)刀ではないことを考えると、ご落胤の可能性は低くないとも考えられる。▼
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[[北辰一刀流]]開祖・[[千葉周作]]の道場[[玄武館]]の門弟とされるが、[[加納鷲雄]]証言では「[[伊東甲子太郎]]の伊東道場の寄り弟子」であったという<!--から、後者のほうが正しいのかもしれない-->。新撰組顛末記によると、[[近藤勇]]の道場[[試衛館]]以来の生え抜きで、新選組結成当時からの同志とされている。[[池田屋事件]]では、最初に斬り込んだ
[[元治]]元年([[1864年]])11月、新選組は江戸にて大規模な隊士募集を行った
慶応3年(1867年)3月、伊東
永倉新八の証言(新選組顛末記)によれば、彼が油小路に向かう前に近藤の口から「藤堂だけは生かしておきたいものだな」と聞き、藤堂が逃げられるように道をあけたが、事情を知らぬ隊士[[三浦常三郎]]に斬られた。[[子母澤寛]]の『新選組始末記』によると、藤堂は永倉の深意はくみ取ったものの、魁先生と呼ばれたプライドと同志を見捨てられないので、新選組に立ち向かって三浦常三郎に斬られたとある。 また、永倉の深意を汲み取り退こうとしたところを、三浦常三郎に後ろから斬りつけられたため、藤堂は背後から斬られるのは武士の恥として応戦し、数々の傷を負い戦死したとする説もある。
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