「三浦盛時」の版間の差分
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== 生涯 ==
[[1232年]]、[[九条頼経]]が[[鶴岡八幡宮
盛時の母 矢部禅尼は、最初[[北条泰時]]に嫁いでいたが、離縁して[[佐原盛連]]に再縁したという経緯を持つ。両者との間に[[北条時氏]]、盛時ら兄弟を
その為か、[[三浦泰村]]らが滅んだ宝治合戦では嫡流の泰村らとは袂を分かち、佐原流三浦一族を率いて[[北条時頼]]に与した。合戦に先んじて、時頼は盛時を[[陸奥国]]糠部五戸郡の[[地頭代
宝治合戦の直前、津軽の海辺に「人間の死骸のような」魚が漂着するという事件があった。盛時はこの顛末を時頼に報告し、更に、[[奥州合戦]]の直前にも酷似した現象があったことから、合戦の予兆であるとも指摘した。この話は
合戦当日、盛時の兄弟を含む佐原一族は時頼の与党と共に時頼の館に結集したが、盛時自身は何らかの事情があって参戦に遅刻したらしい。遅れた盛時は屋敷の塀を乗り越えて時頼の館に到着し、この行動に感嘆した時頼から盛時は鎧を賜った。
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