「百々綱家」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2008年8月}}
'''百々 綱家'''(どど つないえ、[[天文 (元号)|天文]]17年([[1548年]])? - [[慶長]]14年([[1609年]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]の[[武将]]。織田信長、秀信に仕え、[[関ヶ原の戦い]]後に[[山内一豊]]に招聘された人物である。[[諱]]は安信、安行とも。官職名は越前守。
 
== 経歴 ==
近江[[京極氏]]の[[京極秀綱]]の弟。[[近江国]][[犬上郡]]百々村に居を構えて百々氏を称し、近江浅井氏に属していた。[[姉川の戦い]]で[[浅井長政]]が[[織田信長]]に敗れた後は信長に仕え、[[中山道]]と[[北国街道]]の分岐点の[[摺針峠]]の関所を護る。[[天正]]10年([[1582年]])、[[本能寺の変]]後は[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に属し、[[山崎の戦い]]で軍功を上げる。その後、秀吉によって信長の嫡孫三法師([[織田秀信]])の後見役を命じられ、後には家老をつとめた。この際、代官領と併せて1万1千石を領している。[[文禄]]元年([[1592年]])、[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]の際には、秀信の名代として兵6000を率いて渡海している。
[[宇多源氏]]、近江[[京極氏]]。[[京極秀綱]]の弟。[[近江国]][[犬上郡]]百々村に居を構え、百々殿と呼ばれる。{{和暦|1548}}生まれとも天文15年([[1546年]])生まれともされる。[[浅井氏]]に属する[[佐和山城]]の城代・百々盛実(盛道)は一族か。
 
慶長5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では、西軍に与した秀信に対して東軍に与するよう諫言したが、聞き入れられることはなかった。[[米野の戦い]]において飯沼長資津田藤左衛門らとともに2千5百の2500を率いて米野に布陣、奮戦し東軍を苦戦させる働きをするも5倍近い兵力の差からが、やがて劣勢に陥り後退を余儀なくされる。このときって殿を務め見事にやり遂げている。その後撤退し[[岐阜城での]]籠城の方針を決め込むがるも、[[福島正則]]の言に従い、って降伏・開城する。この罪で秀信は[[高野山]]に流され、綱家は京都で蟄居を命じられ
当時、近江[[守護職]]の家柄である京極氏は家督争いが原因で衰退していたため、家臣筋である近江・浅井氏に属していた。[[元亀]]元年([[1570年]])6月の[[姉川の戦い]]で浅井長政が[[織田信長]]に敗れた後は信長に仕え、[[中山道]]と[[北国街道]]の分岐点の[[摺針峠]]の関所を護る。
 
[[天正]]10年([[1582年]])、[[本能寺の変]]で信長が倒れると、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の陣に属し、[[山崎の戦い]]で軍功を上げる。その後、秀吉によって[[岐阜城]]にいる信長の嫡孫・三法師(当時2歳・後の[[織田秀信]])の後見役を命じられ、岐阜城に入り、後に家老となった。この際代官領と併せ1万1千石を有す。
 
[[文禄]]元年([[1592年]])、[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]の際には、綱家は12歳になった織田秀信の名代として兵6千を引き連れて朝鮮に渡る。
 
慶長5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では、西軍に与した秀信に対して東軍に与するように諫言したが、聞き入れられることはなかった。[[米野の戦い]]においては飯沼長資、津田藤左衛門らとともに2千5百の兵を率いて米野に布陣、奮戦し東軍を苦戦させる働きをするも5倍近い兵力の差から劣勢に陥り後退を余儀なくされる。このとき殿を務め見事にやり遂げている。その後、岐阜城での籠城を決め込むが、[[福島正則]]の言に従い、降伏・開城する。この罪で秀信は[[高野山]]に流され、綱家は京都で蟄居を命じられる。
 
関ヶ原の戦後、しばらくは[[浪人]]となったが、[[土佐藩]]主となった山内一豊から家康に「越前守の蟄居を解く」願いが出されて許可されたため、7千石の築城奉行として迎えられた。その官職名から、[[高知城]]の西に「越前町」が残っている。[[近江国|近江]][[坂本 (大津市)|坂本]]の石工集団「[[穴太衆]](あのうしゅう)」の技術力を駆使し、「河内」という低湿地だった場所に「高知城」を築いたのをはじめ、慶長6年([[1601年]])には[[江戸城]]の石垣の修復などにもはるばると遠征をしている。
 
一豊死後は[[山内忠義]]に仕えた。慶長14年(1609年)、江戸幕府が西国ににらみを効かせるため、[[松平康重]]([[徳川家康]]の落胤説がある)の居城として[[丹波国|丹波]][[篠山城]]の築城をする際、綱家は[[土佐国|土佐]]高知城築城の総奉行を務めていた途上であったが、兵2千を引き連れて石垣普請に赴く。しかし心労が重なり病にたおれ、静養のために京に上るがそこで病死。享年63。
 なお子孫は、嗣子百々出雲守直安以降代々山内家に仕える。因みに幕末の土佐藩参政吉田東洋の父、土佐藩馬廻役吉田光四郎正清は、百々家から吉田家へ養子入りした。
 
関ヶ原の戦後は[[浪人]]したが、[[土佐藩]]主[[山内一豊]]が百々に対する家康への赦免状が許可され、7000石の築城奉行として山内家に仕えた。[[近江国|近江]][[坂本 (大津市)|坂本]]の石工集団「[[穴太衆]]」の技術力を駆使して[[高知城]]を築くなど、慶長6年([[1601年]])には[[江戸城]]の石垣修復にも参画している。慶長14年(1609年)、[[丹波国|丹波]][[篠山城]]築城の際、[[土佐国|土佐]]高知城築城の総奉行を務めていた途上であったが、兵2000を引きいて石垣普請に赴くが、心労が重なって病にたおれる。京にて静養したが、病死した。享年63。
 
== 築城の名手 ==
江戸末期に岡田文圓が表した「新撰美濃誌」には、「岐阜中納言秀信の家臣百々越前守、ここに居りしゆえ、名字を百々と称しけるとぞ」と書かれたりしている。また昨今の「地名事典」の中には、岐阜市の最高峰の「[[百々ヶ峰]]の名は、越前守の居城があったから」とか書いているのもあるが、「築城の名手」であったことから、そんな話が生まれたのかも知れない。また「岐阜城落城後の越前守は行方不明」と書いている事典もあるが、「築城の名手」として高知城・江戸城・篠山城の築城に当たっている。そうした技術を持っていたが故に、{{要出典範囲|[[本能寺の変]]の前に[[安土城]]の築城等にも関わっていたものと思われる。|date=2008年8月}}因みに安土城には百々橋なる橋があった。
 
== 備考 ==
 なお*子孫は、嗣子百々出雲守直安以降代々山内家に仕える。因みに幕末の土佐藩参政[[吉田東洋]]の父、土佐藩馬廻役吉田光四郎正清は、百々家から吉田家へ養子入りしている
 
== 参考文献 ==
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