「二式二号電波探信儀一型」の版間の差分

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岩見浩造 (会話 | 投稿記録)
戦後の大活躍
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'''二式二号電波探信儀一型'''(2しき2ごうでんぱたんしんぎ1がた)は、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の開発した艦艇搭載用の対空警戒[[レーダー]]。'''二号一型電探'''、'''21号電探'''などに略称される。
 
== 概要 ==
陸上用の一号二型レーダーを艦載用としたもので使用波長は1.5m、尖頭出力5kW、測定は最大感度法、重量840kg。アンテナは[[ダイポールアンテナ]]を4列3段(二号一型電探六型の場合)や4列4段(同七型の場合)等に組み合わせ、後方と側方に網を張った長方形。アンテナの大きさは幅3,300mm、高さ1,830mm(六型の場合、台座を含まず)。
 
[[1942年]](昭和17年)5月に[[戦艦]]「[[伊勢 (戦艦)|伊勢]]」に搭載されて実験が行われ、単機の航空機は55km、戦艦「[[日向 (戦艦)|日向]]」を20kmで探知し、この成功により兵器として採用された。実用型での探知距離は単機で70km、編隊で100kmであった。当初はアンテナと機器が一体となって回転していたが、後にアンテナのみ回転するように変更されている。[[ミッドウェー海戦]]後に重要艦艇から搭載され(最も早い搭載は[[1942年]](昭和17年)6月ころの空母「[[翔鶴 (空母)|翔鶴]]」や[[隼鷹型航空母艦]]と言われる<ref>『軍艦メカニズム図鑑-日本の航空母艦』p292による。『日本の軍艦 第3巻』p156によると珊瑚海海戦の損傷修理の際に搭載したのが空母の最初とある。一方『日本の軍艦 第4巻』p34-35の記述によると[[1942年]](昭和17年)7月に「[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]」や[[隼鷹型航空母艦]]装備が最初とされる。</ref>)、順次[[戦艦]]、[[航空母艦]]、[[巡洋艦]]の大型艦艇や[[秋月型駆逐艦]]、[[君川丸]]<ref>[[1943年]](昭和18年)夏に[[佐世保工廠]]で装備。『日本の軍艦 第4巻』p213の写真解説による。</ref>(当時特設[[水上機母艦]])などの艦船に搭載された。その後、小型軽量の[[三式一号電波探信儀三型|一号三型]]が実用化され、対空レーダー整備の主力はそちらに移った。今まで整備された二号一型はそのまま装備されたが、中には[[秋月型駆逐艦]]のように一号三型と交換した例などもあった。
 
== 戦後の活躍 ==
敗戦後の日本国内での食糧不足に際し、GHQの許可を得た捕鯨各社により、近海および南氷洋での捕鯨が昭和21年に早くも再開された。これら捕鯨船団にはGHQからの監督官が同船することが義務付けられたが、南氷洋での捕鯨に際し、レーダーも持たずに操業する危険から、GHQ側の人員が乗船を拒否・懸念する事態となった。しかし敗戦国が漁業用とはいえレーダーを開発製造することは、戦勝国側から懸念された。
そこでGHQにより接収されていた二式二号電探が注目され、昭和22年(1947)の第二次南氷洋操業に際し、船団に搭載され、使用された。
同乗したGHQ側の英国武官からは「日本はこのレベルのものを使っているから戦争に負けたのだ。ロンドンではアンテナが回転して映像が画面に映るような、もっと良いものが市販されている」と感想を残している。また、昭和23年の第三次南氷洋捕鯨出港前、捕鯨母船を視察した旧軍人でもある高松宮殿下は「このレーダーは効果があるかね?僕もレーダーを使って知ってはいるが、故障が多く、(性能的にも)小さな氷山などには効果がないのではないか」との懸念をコメントとして残している。
実際に島嶼に異常接近してしまうなどの事故も起きているが、その際は電探は故障中であった。予想外の素晴らしい効果があった、とされる文面もあり、実際に二式二号電探を装備する船は増え、専用のレーダーが製造開発される昭和25年(1950)の第五次南氷洋捕鯨まで使用された。この間、二式二号電探の保守点検と部品供給を行ったのは、旧帝国軍時代の開発者や製作担当者らであった。
 
 
== 参考文献 ==