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しかしながら、トルコの世俗主義をフランス型の政教分離とまったく同じように理解することはできない。アタテュルクは全ての宗教団体の結社を禁じる一方、宗教事項の総理府所属の宗務庁({{lang|tr|Diyanet İşleri Başkanlığı}})統括とした。宗務庁は全国全ての[[モスク]]を維持設置し、導師([[イマーム]])や説教師を公務員として採用し、[[クルアーン]](コーラン)学校や[[イマーム・ハティープ学校|イマーム学校]]を監督運営している。すなわちアタテュルクの政教分離とは、実際には宗教はきわめて厳格な国家管理のもとに置き、トルコ共和国の進める世俗的で近代的な[[国民国家]]のあり方に反しない範囲に宗教を押し込め、完全に統制しようとするものであった。
 
しかし、[[第二次世界大戦]]後の複数政党制移行後は保守派政権によるイスラーム推奨政策により、宗務庁がむしろ積極的にイスラーム教育を推進することもある。[[1960年]]と[[1980年]]の二度のクーデタは、1960年においては[[アドナン・メンデレス]]首相の長期政権期に起こった経済停滞と、それに対する対処として首相が独裁化したことに対する抗議として、1980年においては小党乱立と左右対立の激化による経済混乱の沈静化を目的として起こされたが、クーデターの実行者たちが政治家の問題行為として考えたものの中に、親イスラーム勢力との接近、イスラーム推奨政策があったことが広く指摘されている。
 
このような国家によるイスラームの統制はある程度の成功を収め、国民教育の結果、トルコ人としてのアイデンティティと[[スンナ派]][[ムスリム]](イスラーム教徒)としてのアイデンティティを渾然一体のものとして受け取るトルコ国民もかなり多くなっており、「私はトルコ人だからムスリムである」「私はトルコ人でムスリムであるが、イスラームは個人の信仰の問題なので公の場に持ち込むべきではない」といった言説もみられる。
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トルコ共和国の建国以来、[[国父]]ケマル・アタテュルクをはじめ、政治家を数多く輩出した軍は、しばしば政治における重要なファクターとなっている。軍は平時は憲法にのっとって[[文民統制]]に服していることになっているが、[[イスラーム主義]]の伸張や政府の混乱に対してしばしば圧力をかけ、[[1960年]]の[[5月27日クーデター]]、[[1980年]]の[[9月12日クーデター]]と二度の[[クーデター]]も起こした。
 
トルコ共和国ではクーデタ直後の軍政期を除き、軍が立法府や行政府に対する直接介入の権利を持ったことはないが、1960年の最初のクーデター以降、[[トルコ共和国参謀本部|参謀総長]]と陸海空の三軍および内務省[[ジャンダルマ]]の司令官をメンバーに含む[[国家安全保障会議 (トルコ)|国家安全保障会議]]({{lang|tr|Milli Güvenlik Kurulu}})の設置が憲法に明記され、安全保障問題に関して軍が内閣への助言を行う権利を有している。しかし実際には、国家安全保障会議は[[経済問題]]、[[教育問題]]、[[社会問題]]等、あらゆる議題を取り扱う事実上の内閣の上位機関として機能しており、この権限を背景としてクーデタ以外にも軍部の圧力で[[内閣]]が退陣に追い込まれる事件も過去に数度起きた。このような軍部の政治介入は、国民の軍に対する高い信頼に支えられていると言われる。
 
1980年クーデタ以降、軍は「ケマリズム」あるいは「アタテュルク主義」と呼ばれるアタテュルクの敷いた西欧化路線の護持を望む世俗主義派の擁護者としての性格を強めている。[[1990年代]]にはイスラーム派政党の[[福祉党 (トルコ)|福祉党]]が台頭し一時は政権の座につくも検察によって反世俗主義の憲法違反と告発され、ついに憲法裁判所({{lang|tr|Anayasa Mahkemesi}}, 通常の上告裁判所である最高裁判所とは別組織)によって解党命令を受ける事件が起こるが、その引き金となったのは国家安全保障会議を通じた軍部の福祉党政権に対する圧力であった。
 
== 欧州連合加盟問題 ==
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トルコ政府は近代化改革の総決算として[[欧州連合]]加盟を目指しており、国民の過半数に支持されている。一方、ヨーロッパ側は欧州連合加盟交渉開始の条件として、[[キプロス]]問題の解決、トルコ政府が行ってきた[[クルド人]]や[[イスラーム主義]]に対する人権抑圧の改善を掲げ、欧州連合加盟問題は長らくトルコにおける課題となってきた。
 
よく誤解されていることではあるが、共和国体制において事実上特権階級化した世俗主義エスタブリッシュメント層は、自己の特権の喪失に他ならない欧州連合加盟に対して、単純に全面的支持を行っているわけではない。とくに世俗主義エスタブリッシュメント層の中でも、実際的権限において中核をしめる軍・司法はとくにその傾向が強い。実際これらの階層は、2度のクーデタ、キプロスへの軍事介入、政党の解散、不明瞭な理由による国会議員や有力政治家の逮捕・投獄・処刑など、欧州連合加盟への課題に明らかに反する行動をとり続けてきた。
 
しかしその中で改革派に属する政治家たちが、国民の70%が積極的に賛成している欧州連合加盟をいわば外圧として利用し、極めてわずかずつではあるが、民主化改革を行ってきた。これらの改革派においてはクルド人やイスラーム主義者が、トルコ共和国の伝統的な路線において抑圧の対象であったがために、むしろ重要な勢力を占める。また、一部極端に過激なものを除き、そしてイスラーム系・クルド系政党をふくめ、彼らの求めていることはあくまでもトルコ共和国の改革であって、トルコ共和国の国家体制の根幹そのものを攻撃しようとしているわけでは決してないことに注意する必要がある。例えば、2004年に釈放されたクルド系政党民主党(DEP: CHPから分離した民主党 (DP) とは別組織)の元党首レイラ・ザナは、[[サハロフ賞]]の受賞の際に[[トルコ語]]と[[クルド語]]で演説し、「この受賞は私個人だけのものでなくトルコ全体にとっての受賞である」と表明している。