「鳥尾小弥太」の版間の差分

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晩年は一切の職を辞し、[[仏教]]を信奉する参禅生活に入った。明治38年([[1905年]])、[[静岡県]][[熱海市|熱海]]の別邸にて死去した。享年58。
墓所は[[兵庫県]][[加古川市]]の光念寺。
 
== 政治姿勢 ==
貴族院内においては、[[懇話会|懇話会・月曜会]]に属しながらも、常に藩閥政府への対抗姿勢を貫いた。[[自由党 (日本 1890-1898)|自由党]]と[[立憲改進党]]を論敵と見なし、政府の西欧化政策、[[キリスト教]]への批判を展開した。また[[佐々木高行]]や[[元田永孚]]ら宮廷派、谷ら陸軍反主流派を合して'''保守党中正派'''を結成した。民権運動や議会主義を批判して藩閥政府に反対的な立場を取るなど、保守中正を唱えて機関誌『保守新論』を発行した。
 
== エピソード ==
* 幕末の奇兵隊時代、変名として'''「鳥尾小弥太」'''を称した。隊士が集まった夜話の際に、同姓者が多い「中村」では人間違いで困ると話したところ、系図に詳しい一人が、中村姓の本姓には「鳥尾」姓があるとしてこれを選び、さらに武張った印象を与えるとして「小弥太」を選んだ。これは一夜の冗談のつもりだったが、翌日、ある隊士が隊長へ提出する連署の書面に「鳥尾小弥太」と悪戯で署名したので、これを契機として変名を名乗ったと伝わる。[[長州藩主]]・[[毛利敬親]]から「鳥尾小弥太」宛の感状を拝領するにおよんで正式に改名したとも、また、勤王活動の累が家族に及ぶことを畏れた父が勘当したので変名を名乗った、などの説が伝わっている。
* '''鳥尾坂'''([[東京都]][[文京区]]関口3丁目9と11の間)。当時のこの付近(関口台公園、[[獨協中学校]]など)に本邸を構えていた鳥尾は、西側の鉄砲坂があまりに急坂で通行人の難渋する様子を実見し、私財を投じて坂道を開いた。感謝した地元の人々によって「鳥尾坂」と名づけられ、坂下には坂名を刻んだ石柱が残っている。
* 統一学舎を設立した鳥尾は、[[京都]]の別荘・一得庵に関西支部の設置を準備したものの、実現させることなく死去した。現在、旧別荘近くの[[高台寺]]内に同学舎による顕彰碑が建立されている。
* 幕末期、当時[[奇兵隊]]の陣屋であった法専寺([[山口県]][[下関市]]吉田)に駐屯していた鳥尾は、「我が国は神国であるにもかかわらず、[[仏教]]が年に盛んになって、石地蔵までが氾濫しているのはけしからん」として檄昂し、隊士を引き連れて境内にあった6体の地蔵の首を切り落としている。なお、現在は地蔵の首の中心に鉄棒を打ち込み、[[セメント]]で首をつないで補修がなされている。
*明治6年([[1873年]])の第六局長時代、「[[東京湾]]海防策」を建議して同湾を囲堯する沿岸の砲台建設を提言している。これにより同湾の富津沖に[[海堡]]の建設がなされた。
* [[日清戦争]]当時、日本軍の後背を脅かした[[清国]]騎兵に対抗するため、[[満州]]の[[馬賊]]への懐柔を献策している。結局、実現するには至らなかったものの、非正規兵であった馬賊に着目した点が注目される。
* 明治期の教育者[[下田歌子]]に禅学を教授している。
* 封建制度の終焉となった[[廃藩置県]]は、鳥尾と[[野村靖]]による会話を山縣に提起したことが発端とする説がある。
* 明治33年([[1890年]])の帝国議会。[[司法大臣]]・[[山田顕義]]が[[フランス]]人法律家の任用を可能とする改正案を提議したところ、当初、鳥尾は強硬に反対したものの、翌日の議会では賛成に転じた。この変節には他の議員も驚いたが、山田が涙を揮って苦心を説いたことが変節の理由であり、これに動かされて変節するに及んだという。実際、このような話は他にも沢山あったらしい。
*当時の日本人の外国における面白エピソード集『赤毛布』(明治33年)に、「鳥尾小弥太の苺代」という項がある。欧州外遊中の鳥尾が[[パリ]]にて季節はずれの[[苺]]を散々食べ散らかし、請求された予想外の代金に驚愕するエピソードが収められている。
*墓所は兵庫県加古川市に存するが、これは父が[[参勤交代]]の途次、加古川の旅館菊屋で死亡したためである。維新後に墓参に訪れた際、父の最期を看取った旅館の老婦人から、「他は何も気にかかることはないが、江戸に残してきた息子のことが気にかかる」との遺言を聞かされた鳥尾は、「自分の死後は父の墓に埋葬せよ」と遺言している。
 
== 官歴 ==
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* 明治28年([[1895年]])
** 6月:枢密顧問官
 
== 政治姿勢 ==
貴族院内においては、[[懇話会|懇話会・月曜会]]に属しながらも、常に藩閥政府への対抗姿勢を貫いた。[[自由党 (日本 1890-1898)|自由党]]と[[立憲改進党]]を論敵と見なし、政府の西欧化政策、[[キリスト教]]への批判を展開した。また[[佐々木高行]]や[[元田永孚]]ら宮廷派、谷ら陸軍反主流派を合して'''保守党中正派'''を結成した。民権運動や議会主義を批判して藩閥政府に反対的な立場を取るなど、保守中正を唱えて機関誌『保守新論』を発行した。
 
== エピソード ==
* 幕末の奇兵隊時代、変名として'''「鳥尾小弥太」'''を称した。隊士が集まった夜話の際に、同姓者が多い「中村」では人間違いで困ると話したところ、系図に詳しい一人が、中村姓の本姓には「鳥尾」姓があるとしてこれを選び、さらに武張った印象を与えるとして「小弥太」を選んだ。これは一夜の冗談のつもりだったが、翌日、ある隊士が隊長へ提出する連署の書面に「鳥尾小弥太」と悪戯で署名したので、これを契機として変名を名乗ったと伝わる。[[長州藩主]]・[[毛利敬親]]から「鳥尾小弥太」宛の感状を拝領するにおよんで正式に改名したとも、また、勤王活動の累が家族に及ぶことを畏れた父が勘当したので変名を名乗った、などの説が伝わっている。
* '''鳥尾坂'''([[東京都]][[文京区]]関口3丁目9と11の間)。当時のこの付近(関口台公園、[[獨協中学校]]など)に本邸を構えていた鳥尾は、西側の鉄砲坂があまりに急坂で通行人の難渋する様子を実見し、私財を投じて坂道を開いた。感謝した地元の人々によって「鳥尾坂」と名づけられ、坂下には坂名を刻んだ石柱が残っている。
* 統一学舎を設立した鳥尾は、[[京都]]の別荘・一得庵に関西支部の設置を準備したものの、実現させることなく死去した。現在、旧別荘近くの[[高台寺]]内に同学舎による顕彰碑が建立されている。
* 幕末期、当時[[奇兵隊]]の陣屋であった法専寺([[山口県]][[下関市]]吉田)に駐屯していた鳥尾は、「我が国は神国であるにもかかわらず、[[仏教]]が年に盛んになって、石地蔵までが氾濫しているのはけしからん」として檄昂し、隊士を引き連れて境内にあった6体の地蔵の首を切り落としている。なお、現在は地蔵の首の中心に鉄棒を打ち込み、[[セメント]]で首をつないで補修がなされている。
*明治6年([[1873年]])の第六局長時代、「[[東京湾]]海防策」を建議して同湾を囲堯する沿岸の砲台建設を提言している。これにより同湾の富津沖に[[海堡]]の建設がなされた。
* [[日清戦争]]当時、日本軍の後背を脅かした[[清国]]騎兵に対抗するため、[[満州]]の[[馬賊]]への懐柔を献策している。結局、実現するには至らなかったものの、非正規兵であった馬賊に着目した点が注目される。
* 明治期の教育者[[下田歌子]]に禅学を教授している。
* 封建制度の終焉となった[[廃藩置県]]は、鳥尾と[[野村靖]]による会話を山縣に提起したことが発端とする説がある。
* 明治33年([[1890年]])の帝国議会。[[司法大臣]]・[[山田顕義]]が[[フランス]]人法律家の任用を可能とする改正案を提議したところ、当初、鳥尾は強硬に反対したものの、翌日の議会では賛成に転じた。この変節には他の議員も驚いたが、山田が涙を揮って苦心を説いたことが変節の理由であり、これに動かされて変節するに及んだという。実際、このような話は他にも沢山あったらしい。
*当時の日本人の外国における面白エピソード集『赤毛布』(明治33年)に、「鳥尾小弥太の苺代」という項がある。欧州外遊中の鳥尾が[[パリ]]にて季節はずれの[[苺]]を散々食べ散らかし、請求された予想外の代金に驚愕するエピソードが収められている。
*墓所は兵庫県加古川市に存するが、これは父が[[参勤交代]]の途次、加古川の旅館菊屋で死亡したためである。維新後に墓参に訪れた際、父の最期を看取った旅館の老婦人から、「他は何も気にかかることはないが、江戸に残してきた息子のことが気にかかる」との遺言を聞かされた鳥尾は、「自分の死後は父の墓に埋葬せよ」と遺言している。
 
== 栄典 ==
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* 明治22年([[1889年]])12月27日:[[勲一等瑞宝章]]
* 明治35年([[1902年]])6月30日:[[勲一等旭日大綬章]]
 
== 親族 ==
*息子 [[鳥尾敬光]](子爵・夫人は[[鳥尾鶴代]])
*孫 [[鳥尾敬孝]](子爵・実業家、[[慶應義塾大学]]中退)
 
== 著書 ==
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* 『統一学』([[1902年]])
* 『道徳弁』([[1902年]])
 
== リンク ==
* [[鳥尾鶴代]]
* [[鳥尾敬孝]]
 
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