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'''足利 義量'''(あしかが よしかず)は、[[室町時代]]中期の[[室町幕府]]第5代[[征夷大将軍]]。4代将軍[[足利義持]]の[[嫡男]]。母は[[日野資康]]の娘で正室の[[日野栄子]]。
 
== 生涯 ==
[[応永]]30年([[1423年]])3月18日、16歳で父から将軍職を譲られて第5代将軍に就任する。しかし[[疱瘡]]を患うなど生来から病弱であった上、大酒飲みでさらに健康を悪くしたと言われている。15歳の時、父の義持に大酒を戒められ、近臣は義量に酒を勧めないよう[[起請文]]をとられたという話なども伝えられている。
 
また、政治においても隠居していた父の義持や有力[[管領]]らの存在もあって実権は無いに等しかったとされる。『[[看聞日記]]』によれば、死の3年ほど前から病を得て(大酒が起因しているのかどうかは不明)、ほどなく応永32年(1425年)2月24日に父に先立って早世した。享年1919(満17歳没)
 
義量には嗣子が無かったため、父の義持が将軍代行として正長元年([[1428年]])に死去するまで政務を執ることになった。
 
[[栃木県]][[足利市]]の金剛山仁王院法華坊[[鑁阿寺]]が義量の木像を所蔵している。
== 経歴 ==