「オラドゥール=シュル=グラヌ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m r2.6.4) (ロボットによる 追加: eu:Oradour-sur-Glane
41行目:
ドイツはレジスタンス運動のメンバーをテロリストと見なしていた。制服を着るわけでもなく非武装のドイツ占領要員への攻撃をためらわず、一般民衆に紛れて活動する「顔の見えない」彼らを非常に大きな脅威と捉えていた。<!--Although less brutal in scope than what occurred on the Eastern Front,-->オラドゥールにおける虐殺は突発的なものではなく、慎重に練られたレジスタンス一掃政策の一部だった。しかしながら、このような虐殺や何千人にもおよぶ一般市民の死にもかかわらずフランスにおけるレジスタンス運動は様々な形態を取りながら終戦まで続けられた。
 
ドイツによるこのような集団報復が行われたのは、オラドゥールだけではなかった。[[ソビエト連邦|ソ連]](現・[[ウクライナ]])のコーテリシー、[[チェコ]]の[[リディツェ]]村、[[オランダ]]の[[w:en:Putten#World_War_II_Nazi_warcrime|プッテン]]、[[イタリア]]の[[マルツァボット]]などでも同様の虐殺が行われている。さらにドイツ兵はフランス各地で無作為またはレジスタンス疑惑のある集団の中から人質をとった。これは、自身に加えて他者の命まで危険にさらすのをためらったレジスタンスが攻撃を控えることを狙ったものであった。
 
== 戦後 ==