「大浦兼武」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Tutusode (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
Ki4Utsu (会話 | 投稿記録)
87行目:
薩摩藩主[[島津氏|島津家]]の[[分家]]である[[薩摩藩家臣|宮之城島津家の家臣]]として生まれる。[[戊辰戦争]]では薩摩軍に所属し、[[奥羽越列藩同盟|奥羽方面]]に出征。
 
[[明治維新]]後は[[日本の警察|警察]]に入り、[[西南戦争]]では[[抜刀隊]]を率いて戦功を挙げた。[[巡査|邏卒]]から累進して三等小[[警部]]兼陸軍[[中尉]]となり、明治8年([[1875年]])に[[警視庁 (内務省)|警視庁]][[警部補]]に昇進。明治14年([[1882年]])、[[大阪府警察部|大阪府]][[本部長|警部長]]に就任。明治17年([[1884年]])に[[松島遊廓]]で起こった[http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/naniwa080315.html 兵士と警官の乱闘事件]に際しては、双方の[[上司|上官]]として現場に割って入って鎮圧し、評価を高めた。明治21年([[1888年]])、[[内務省 (日本)|内務省]][[警保局]][[次長]]に就任。
 
明治26年([[1893年]])以降、[[島根県]]・[[山口県]]・[[熊本県]]・[[宮城県]]の[[都道府県知事|知事]]を歴任。明治31年([[1898年]])、[[警視総監]]に就任。[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]も務め、明治36年([[1903年]])に[[第1次桂内閣]]で[[逓信省|逓信大臣]]として初入閣。明治39年([[1906年]])[[4月1日]]、[[勲一等旭日大綬章]]を受章。その後も[[第2次桂内閣]]の[[農商務省 (日本)|農商務大臣]]、[[第3次桂内閣]]の[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]、[[第2次大隈内閣]]の農商務大臣・内務大臣を歴任。[[立憲同志会]]の創立にも加わる。