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| casualties2=戦死990<br />戦傷2,296
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'''タラワの戦い'''({{lang-en|Battle of Tarawa}})とは、[[第二次世界大戦]]中の[[1943年]][[11月21日]]から[[11月23日]]にかけて、[[ギルバート諸島]][[タラワ|タラワ環礁]][[{{仮リンク|ベティオ島]]|en|Betio}}(現在の[[キリバス|キリバス共和国]])で行われた日本軍守備隊と米軍との戦闘。米軍は[[ガルヴァニック作戦]]('''Operation Galvanic''')の一環として実施した作戦であった。
 
==背景==
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[[アリューシャン方面の戦い|アリューシャン]]、[[ソロモン諸島の戦い|ソロモン諸島]]方面で勝利を収めた[[アメリカ海軍|米海軍]]は[[1943年]]の夏頃には中部太平洋への侵攻が可能となった。そのため、1943年の初めから中部太平洋への侵攻作戦を計画していた[[アメリカ統合戦略委員会]]は米海軍とともに中部太平洋侵攻作戦の準備を始めた。しかし、南太平洋最高司令官である[[ダグラス・マッカーサー]]は[[ニューギニア]]から[[フィリピン]]に至る[[カートホイール作戦]]の実施を主張し、この計画に反対したため、[[アメリカ陸軍|米陸軍]]と米海軍で意見が分かれた。
 
しかし、最終的に[[アメリカ統合戦略委員会]]はカートホイール作戦のみでは日本軍に側面から脅かされると判断し、カートホイール作戦の実施と共に中部太平洋への侵攻を決定し、さらに[[8月21日]]から[[8月24日]]の間には[[カナダ]]の[[ケベック]]で[[アメリカ合衆国]]、[[イギリス]]、[[カナダ]]、[[フランス]]の四箇国が会談し、中部太平洋への侵攻作戦の具体案を決定した。そして、その攻撃の最初の矛先となったのはギルバート諸島のマキン、タラワ、アベママの三島であった。
 
===日本側===
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[[11月21日]]午前4時、タラワ環礁の外側にいた米軍の輸送船から上陸第1波である125両の[[LVT]]が発進した。舟艇群は環礁の西側の水路から礁湖への侵入を試みたが、日本軍の西海岸の[[砲台]]が反撃し、上陸部隊は大損害を被ることとなった。
 
これに対し、米軍は派遣艦隊の[[旗艦]]である[[戦艦]][[メリーランド (戦艦)|メリーランド]](USS Maryland, BB-46) が[[艦砲射撃]]で反撃し、その[[主砲]]で日本軍の西海岸砲を制圧した。なお、この時一発の砲弾が日本軍の弾薬庫に命中し、島を揺り動かすほどの爆発が起こった。
 
この後、米軍は島の砲陣地や機銃陣地に対して再び艦載機による攻撃を加え、午前6時20分には戦艦3隻、[[巡洋艦]]5隻が艦砲射撃を開始した。日本軍守備隊はそれぞれの陣地で配置についていたが、艦砲射撃により電話線が修理不可能となるほどの被害を受け、命令がうまく伝わらなくなった。そのため守備隊の各隊は統一的な指揮を失い独立行動をとらざるをえなくなった。
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第4波以降の上陸部隊も続々とリーフに辿り着いたが、LVTではなく上陸用舟艇であったため、リーフを乗り越えることができなかった。リーフ上の水深は60cm~90cmしかないのだが、上陸用舟艇は最低でも1.2mの水深がないと動くことができなかったからである。そのため第4波以降の上陸部隊は装備を頭上にかかげ、海岸への徒渉上陸を試みた。しかし、リーフの先から海岸までの450mは再び深い海であり、重い装備のため海に沈む者が続出した。更に、そこへ日本軍守備隊が海岸から機銃で攻撃を加えたため、海岸にたどりつけた者はほとんどいなかった。わずかに海岸にたどり着いた者は奥行き60m程度しかない砂浜の陸地側にある、高さ1.2mの防壁の側に身を潜めた。すでにこの時点で上陸した米兵約5000名のうちその3分の1は死傷していた。
 
上陸部隊の苦境を見た攻撃隊指揮官の[[{{仮リンク|デビット・シャウプ]]|en|David M. Shoup}}大佐は連隊予備の前線参加を命じ、さらなる艦砲射撃と航空支援を要請した。要請に基づき、島は再び砲爆撃を受けた。この時の砲爆撃に際して、米軍は海岸の上陸部隊から日本軍陣地を無線電話で誘導し、命中精度が向上した。同じ頃、[[ジュリアン・スミス]]師団長は師団の予備兵力である海兵1個連隊の投入を決定した。
 
一方、二度目の艦砲射撃により日本軍の死傷者は急増していた。これを見た柴崎少将は戦闘司令所を負傷者の治療所に提供し、自らは[[参謀]]や司令部要員を連れて外海側の防空壕に移った。しかし、その防空壕に直撃弾が命中し、柴崎少将は[[戦死]]した。
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まず[[連合艦隊]]は、上陸のあった21日に、[[ポンペイ島]]にいた陸軍[[海上機動旅団#甲支隊について|甲支隊]]の派遣を決めた。軽巡3隻、駆逐艦2隻、輸送船2隻からなる輸送部隊と、重巡4隻、駆逐艦6隻からなる邀撃部隊を編成し、26日までに[[マーシャル諸島]]の[[クェゼリン]]に進出させた。しかし、タラワからの通信が22日の午前中から途絶し続けたために、甲支隊の派遣は中止された。
 
つぎに合艦隊は[[潜水艦]]9隻をギルバート海域に進出させ、米海軍機動部隊の攻撃及び索敵を行った。その結果、24日に[[伊号第一七五潜水艦|伊175潜]]がマキン沖で[[護衛空母]][[リスカム・ベイ (護衛空母)|護衛空母リスカム・ベイ]](USS Liscome Bay, CVE-56)の撃沈に成功したが、日本軍は引き換えに潜水艦6隻を失った。
 
また、マーシャル諸島の[[クェゼリン環礁|ルオット]]から出撃した海軍航空隊による反撃も行われた。21日にはギルバート沖のアメリカ機動部隊を目標とした[[ギルバート諸島沖航空戦]]が展開された。21日に軽空母[[インディペンデンス (CVL-22)|インディペンデンス]](USS Independence, CV/CVL-22)を大破させた。22日には[[一式陸上攻撃機|陸攻]]9機、[[戦闘機]]39機が発進したが、天候不良のため途中で引き返した。この攻撃隊は陸攻の[[魚雷]]を[[爆弾]]に積み替えて、タラワ上陸部隊の昼間攻撃に再び発進したが、これも天候不良のため途中で引き返すこととなった。
 
22日の夜にルオットを発進した陸攻4機は深夜、タラワ上空に到着した。陸攻は米軍の上陸地点と思われる地点を二航過して爆弾8発を投下し、米軍は戦死者1名戦傷者8名を出した。しかし、この爆撃は日本軍陣地にも着弾してしまい、日本軍にも被害が出たと思われるが詳細は不明である。
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==タラワの戦いが登場するメディア作品==
=== 映像作品 ===
*[[メダル・オブ・オナー パシフィックアサルト]]([[Microsoft Windows|Windows]]用ゲーム)
*映画 [[硫黄島の砂]] [[ジョン・ウェイン]]主演
*ドキュメンタリー 激戦タラワ~日米将兵の再会([[ヒストリーチャンネル]])
*偵察写真が語る第二次世界大戦([[ヒストリーチャンネル]]
*「[[:en:With the Marines at Tarawa|With the Marines at Tarawa]]」 - 米軍の重傷者や波間に漂う遺体、戦死者を海に遺棄する水葬をも含む実戦の情景が初めて米国民に公開され、一時的に志願兵の応募率が低下したという。
 
=== ゲーム ===
*[[メダル・オブ・オナー パシフィックアサルト]]([[Microsoft Windows|Windows]]用ゲーム)
*[[コール オブ デューティ ワールド・アット・ウォー|コール オブ デューティ ワールド・アット・ウォー ファイナル・フロントズ]]([[PS2]]用ゲーム 日本未発売)
 
==注記==
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== 参考文献 ==
*佐藤和正(2000年).『玉砕の島―太平洋戦争激闘の秘録』,[[潮書房|光人社]]NF文庫. ISBN 9784769822721
 
==外部リンク==