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[[ワシントンD.C.]]に生まれ、[[1917年]]アメリカ陸軍に入隊。駐軍中にコロンビア・ナショナル・ロー・スクール(現・[[ジョージワシントン大学]])の夜間部に通って[[法学]]博士号を取得。1927年に除隊となり、その後1940年まで[[マニラ]]で法律事務所を開き、同時に[[鉱山]]などの事業活動を営む。
 
1940年に軍に復帰。[[日本軍]]による[[フィリピン]]全土の掌握に対し、[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]の指揮下、[[オーストラリア]]の基地から、フィリピンの諜報活動を行ない対日ゲリラ活動を指揮して奪回作戦に従事。1944年、前線に復帰し、マッカーサーとともにの下で戦った。
 
日本の[[ポツダム宣言]]受諾後の1945年8月30日、マッカーサーとともに[[厚木基地]]から日本に入国。[[准将]]の階級を持つホイットニーは、一時期フィリピンに戻ったが、同年12月15日に再び来日して連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) で民政局 (GS) の局長に着任、1946年2月3日のマッカーサーの指示によって翌2月4日、トップ・シークレットの憲法草案制定会議をGHQ内に設置しこれを主宰、以後、日本政府に手交するまでの期間、日本国憲法の草案作成を指揮した。
 
ホイットニーは、日本の占領中から[[朝鮮戦争]]までを通じ、側近としてマッカーサーに仕え、その懐刀として活躍した。1951年に[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]大統領と対立したマッカーサーの更迭・退任後、ホイットニーは退役。1956年には、著書『 ''MacArthur - His Rendezvous with History'' 』(『日本におけるマッカーサー 彼はわれわれに何を残したか』(抄訳:毎日新聞社外信部訳、[[毎日新聞社]], 1957年)が出版されている。
 
は、[[アーリントン国立墓地]] にある。
 
==憲法草案==