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同盟の際、長政は永禄11年頃に信長の妹の[[お市の方|市]]を妻とした<ref>『信長公記』によれば市は信長の「娘分」として長政に嫁いだという。また、逸話によると遠藤直経は、お市との婚姻の際に信長を暗殺する計画を長政に提案したという。</ref>。
 
長政は主家六角家臣平井定武との婚約が成立したが、信長との同盟はこれを破談にし六角氏から離反した上で織田に臣従し、信長は浅井との同盟により[[上洛]]経路を確保し、美濃国攻略の足掛かりとした。信長は大いに喜び、通常は浅井側が結婚資金を用意するのが当時のしきたりだったが、信長自身が婚姻の費用を全額負担したとされている<ref>このとき信長の一字を拝領し長政と改名したという説がある。しかし、疑問点もあり、はっきりした事は分かっていない</ref><ref>なお、長政と市の婚姻時期について『信長公記』では永禄11年としているが、『浅井三代記』では永禄7年(1564年)となっている。市は天文16年出生とされ永禄11年時の婚姻では初婚としては遅い20代前半にあたることから市の出生年代や婚姻時期の誤り、初婚でない可能性も考えられており、北近江をめぐる地域情勢から婚姻を永禄4年段階とする説もある(太田浩司「北近江の戦国史」『戦国大名浅井氏と北近江-浅井三代から三姉妹へ-』2008)</ref>。また一説にお市の婚姻は永禄8年(1565年)とする説もある。<ref>[[和田惟政]]が三雲定持に宛てた書状に「浅井備前守と信長の縁辺(婚姻)、入眼候…」とあることから、[[近江国]]矢島の和田惟政の元にいた覚慶([[足利義昭]])が、上洛を目指すために織田と浅井の婚姻を結ばせたとする([[高澤等]]『新・信長公記』)</ref>。
 
永禄11年([[1568年]])7月、朝倉氏に滞在していた15代将軍[[足利義昭]]は一向に上洛の意志をみせない義景に見切りをつけ、尾張の信長の元に身を寄せた。これによって、9月に信長は上洛を開始した。上洛の道中、反抗する六角氏を攻撃。これにより長政の宿敵である六角氏の勢力は南近江の甲賀郡に撤退。浅井氏も義昭を守護しながら上洛を掩護した。