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しまあじ (会話 | 投稿記録)
たぶんタイプミスあるいは方言(?)でしょう
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当初、こうした臨時雑役は[[国衙領]]などの公領を対象としていたが、[[租|田租]]納入が免除された不輸荘園が拡大するにつれて国衙領を浸食していったため、国司側の対抗手段として不輸荘園にも雑役が課せられるようになった。不輸荘園はこれを回避すべく、有力貴族に働きかけて雑役免除の[[太政官符]]・[[宣旨]]を獲得していたが、国司側もさらに一国平均の雑役賦課を上級官庁へ申請し、認可を受けることで不輸荘園へ対抗していった。
 
一国平均役の成立時期については様々な議論がある。{{和暦|1031}}に宮城大垣修造に際して[[尾張国]]に対して一国平均役が認められた(『[[小右記]]』同年9月14日条)のが記録上最古の例であるが、造内裏役での初例は{{和暦|1040}}、役夫工米での初例は{{和暦|1096}}、[[御願寺]]造営での初例は{{和暦|1102}}の[[尊勝寺]]造営、大嘗会役での初例は{{和暦|1142}}と、一国平均役が導入された時期にはバラつきがある。造内裏役に限定すれば、[[後三条天皇]]の{{和暦|1071}}の造営を機に一国平均役が制度として確立されたものと考えるのが妥当である。だが、他の造営・儀式では導入された先例はあっても限定的に認められるだけでまだ制度化には至らないもの、そもそも一国平均役そのものがこの時期にはまだ導入されていなかったものもあり、造内裏役の例をもって全ての造営・儀式における一国平均役の制度化とみなすことには問題がある。また、受領の申請に対して一国平均役を認可するという体裁は変化しておらず、後世にみられる朝廷が能動的に賦課する一国平均役はこの段階では存在しなかった。11世紀の段階では内裏造営など料国の負担が重い事業に関して一国平均役が認められるようになり、諸国で正税・不動穀の蓄えがほんど失われ、[[済物]]納入が滞るようになる11世紀末から12世紀にかけて負担の軽い事業に対しても一国平均役が導入されたとみられている。12世紀前半には「勅事」「院事」などの言葉が国司や[[荘園領主]]・[[在地領主]]の間で用いられ、一国平均役を国家から荘園に対する租税とみなすようになった。そして、名実ともに一国平均役が制度として確立されたのは、{{和暦|1157}}の内裏造営がきっかけであったとみられている。この直前に[[保元新制]]を出した[[後白河天皇]]は自らを全ての公領・私領の支配者と位置づけ、その理念のもとに従来は認可の宣旨を出すのみであったであった一国平均役に対して、初めて朝廷側から賦課する宣旨を発給し始めたのである。なお、この際に後白河天皇は負担を拒む荘園に対しては、荘園の没収や[[領家]]の交替を命じると威嚇している(東大寺文書「保元二年三月日造内裏行事所切符」(『平安遺文』2877号)。<ref name=uesima/>
 
一国平均役には必ず朝廷の認可を受けて一国平均役を命じた宣旨の発給を必要としていたが、これは不輸荘園の中には朝廷から直接不輸の認定を受けた[[官省符荘]]も含まれていたことによる。また、こうした造営や儀式の負担は本来は公領からの官物から負担すべきものであり、一国平均役は臨時の措置であった。そのため、国司側が官物からの負担で賄える場合には申請を行わないケースもあった。また、朝廷が能動的に一国平均役の宣旨を出すようになると、朝廷の[[行事所]]が荘園領主や在地領主に対して直接納付を命じる事例や荘園領主側が一括して[[京済]]する事例も登場する。反対に一国平均役の免除を希望するの場合は、免除を希望する荘園領主側から免除の申請を行う必要があり、個別の免除には[[官宣旨]]、[[王家領]]などを対象とした一括の免除には太政官符・[[太政官牒]]の発給を伴う免除の認可を必要とした。<ref name=uesima/>また、一国平均役の賦課は、国衙が作成した国内の土地台帳である[[大田文]]を基にして実施された。大田文の成立には、一国平均役との強い関連が想定されている。