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'''ベネシュ布告'''(ベネシュふこく、{{Lang-cs|Benešovy dekrety}}、{{Lang-sk|Benešove dekréty}})とは、[[第二次世界大戦]]期に[[チェコスロバキア亡命政府]]が議会の採決なしに公布施行した一連の[[法 (法学)|法]]の総称。正式には'''共和国大統領布告''' (dekrety(Dekrety presidenta republiky)republiky)の総称である。現在ではベネシュ布告といえばとくに、戦後のチェコスロバキアにおける[[ドイツ人]]や[[ハンガリー人]]の地位に関する布告大統領令を指すことが多い。ベネシュ布告は今日の政治において、第二次世界大戦後にチェコスロバキアから[[ドイツ人追放|ドイツ人]]とハンガリー人を排斥した措置やその影響についての歴史議論の象徴となっている
 
== 概要 ==
大統領令は、ロンドン亡命政府の設置にあたり[[エドヴァルド・ベネシュ]]大統領が署名したもので、[[1940年]]から[[1945年]]までロンドンで発行された亡命政府の官報「チェコスロバキア公文書ジャーナル」(Úř. věst. čsl., Úřední věstník československý)で発令された。また1945年[[4月]]のチェコスロバキア解放後も、議会体制確立までの間、亡命政府に引き続き国民戦線政府が法令を大統領令の形で発令した。
諸布告は[[チェコスロバキアの大統領|大統領]][[エドヴァルド・ベネシュ]]が発したものである。布告は3つに分けることができる。
{{Indent|1. 1940年-1944年}}
{{Indent2|この期間に発された布告は[[ロンドン]]に亡命していた政府によるものである。これらはおもにチェコスロバキア政府(軍を含む)およびその組織の創設に関するものであった。}}
{{Indent|2. 1943年-1945年}}
{{Indent2|亡命政府による布告。おもな内容としては、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]から開放されたチェコスロバキアの地域の支配権の移行や戦後のチェコスロバキア政府の組織についてを扱ったものであった。}}
{{Indent|3. 1945年(10月26日まで)}}
{{Indent2|戦後の新政府はスロバキアの[[コシツェ]]において、[[チェコスロバキア共産党]]が強い影響力を持つ[[国民戦線 (チェコスロバキア)|国民戦線]]と呼ばれる枠組みで発足した。このときは新しい議会が設置されていなかったため、政府の意思は大統領布告の形で執行された。ベネシュは行政府が策定した布告に署名していったが、この布告の中には議論となっている、ドイツ人とハンガリー人の財産没収に関する法令が含まれていた<ref>{{Cite web|last=Asiedu|first=Dita|date=2002-02-27|url=http://old.radio.cz/en/article/24446|title=Visegrad Four dispute over Benes Decrees|publisher=Radio Prague|language=英語|accessdate=2009-10-17}}</ref>。}}
 
ロンドン亡命政府時代の1940年7月21日の「チェコスロバキア共和国の国家成立に関する暫定的諮問機関としての国家委員会設立に関する憲法命令」(Ústavní dekret o ustavení Státní rady jako poradního sboru prozatímního státního zřízení Československé republiky、大統領憲法令1940年チェコスロバキア公文書ジャーナル1号)から1945年10月27日の「刑事訴訟手続における請求権の制限に関する命令」(Dekret o omezení žalobního práva v trestním řízení、大統領令1945年法律143号)までの計143件(うち憲法命令17件)が発令された<ref>"Dekrety prezidenta republiky 1940 - 1945, Dokumenty" カレル・イェフ、[[カレル・カプラン]]共著。チェコ共和国科学アカデミー現代史研究所。1995年。</ref>。このうちロンドン亡命政府によって45件(うち憲法命令11件)、国民戦線政府によって98件(うち憲法命令6件)が発令された。
これらの布告は1946年3月5日に、暫定国民会議が憲法法 č. 57/1946 Sb. を可決したことによって遡及的に承認された。
 
このうち国民戦線政府時代の98件については、現代も問題となっているドイツ人とハンガリー人の財産没収に関する命令など戦後処理法令が含まれるが、公私企業の接収と[[国有会社 (チェコ、スロバキア)#国営会社|国営会社]]転換を定めた命令(大統領令1945年法律100号、101号、102号、103号)など、戦後新体制の確立に必要な各種制度制定に関する法令が大半を占めている。
== 議論となっている布告 ==
* 5/1945 Sb. - {{Lang|cs|Dekret presidenta republiky ze dne 19. května 1945 o neplatnosti některých majetkově-právních jednání z doby nesvobody a o národní správě majetkových hodnot Němců, Maďarů, zrádců a kolaborantů a některých organisací a ústavů}}(独立喪失時以降の財産権が関与する商取引の無効とドイツ人、ハンガリー人、内通者および敵側協力者ならびに特定組織団体の所有財産の国家管理に関する1945年5月19日共和国大統領布告)
* 12/1945 Sb. - {{Lang|cs|Dekret presidenta republiky ze dne 21. června 1945 o konfiskaci a urychleném rozdělení zemědělského majetku Němců, Maďarů, jakož i zrádců a nepřátel českého a slovenského národa}}(内通者とチェコ民族およびスロバキア民族の敵性人物およびドイツ人、マジャル人の農業財産の没収および優先分配に関する1945年6月21日共和国大統領布告)
* 16/1945 Sb. - {{Lang|cs|Dekret presidenta republiky ze dne 19. června 1945 o potrestání nacistických zločinců, zrádců a jejich pomahačů a o mimořádných lidových soudech}}(ナチ犯罪者、内通者と加担者に対する処罰および特別人民法廷に関する1945年6月16日共和国大統領布告)
* 27/1945 Sb. - {{Lang|cs|Dekret presidenta republiky ze dne 17. července 1945 o jednotném řízení vnitřního osídlení}}(国内居住地の統一管理に関する1945年7月17日共和国大統領布告)
* 28/1945 Sb. - {{Lang|cs|Dekret presidenta republiky ze dne 20. července 1945 o osídlení zemědělské půdy Němců, Maďarů a jiných nepřátel státu českými, slovenskými a jinými slovanskými zemědělci}}(ドイツ人、ハンガリー人およびその他の国家の敵性人物の農地におけるチェコ人、スロバキア人およびその他のスラブ民族の農家の居住に関する1945年7月20日共和国大統領布告)
* 33/1945 Sb. - {{Lang|cs|Ústavní dekret presidenta republiky ze dne 2. srpna 1945 o úpravě československého státního občanství osob národnosti německé a maďarské}}(ドイツ民族およびハンガリー民族個人のチェコスロバキアにおける公民権の改正に関する1945年8月2日共和国大統領布告)
* 108/1945 Sb. - {{Lang|cs|Dekret presidenta republiky ze dne 25. října 1945 o konfiskaci nepřátelského majetku a Fondech národní obnovy}}(敵性財産の没収および国家回復の資金に関する1945年10月25日共和国大統領布告)
 
これらの布告大統領令は1946年3月5日に、暫定国民会議が憲法法(Ústavní č. 57/zákon、チェコスロバキア暫定国民会議1946 Sb. 年法律57号)を可決したことによって遡及的に承認されたが、のちに半数が廃止された。
== ヨーロッパの戦後清算とベネシュ布告 ==
{{Seealso|ズデーテン地方}}
ベネシュ布告が争点となる機会が多いのは、布告では言及されていないにもかかわらず、チェコスロバキア市民であったドイツ人およそ260万人を1945年から1947年にかけてドイツやオーストリアに強制移転(追放)した事件である([[ドイツ人追放]])。布告支持派は、東ヨーロッパからのドイツ人の脱出は[[ポツダム会談]]において戦勝国が取り決めたことであると主張している。
 
1948年4月13日、チェコスロバキア政府はドイツ人およびハンガリー人に対するチェコスロバキア市民権返還に関する政令(1948年政令76号、Vládní nařízení o vrácení československého státního občanství osobám národnosti německé a maďarské)を施行し、大統領憲法令1945年法律33号で市民権を停止したチェコスロバキア国内に居住するドイツ人やハンガリー人について、制限付きで市民権回復を認めた。さらに翌1949年には同政令に代わるドイツ人に対するチェコスロバキア市民権返還に関する政令(1949年政令252号、Vládní nařízení o vrácení československého státního občanství osobám německé národnosti)が施行され、ほぼすべての国内ドイツ人の公民権回復を認めた。
連合国の間でも、[[ソビエト連邦]]が[[イギリス]]と[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に対して、ドイツ人の民間人や、ドイツ語を話すとされたポーランド人、チェコスロバキア人、ハンガリー人、ユーゴスラビア人、ルーマニア人を連合国の占領地域に追放するよう求めた。[[ポツダム協定]]にフランスは参加しておらず、1945年7月以降にドイツにおけるフランスの占領地域に逃れてきた追放者を受け入れなかった。
 
== 議論となっている布告大統領令 ==
ポツダム協定では残りの連合3か国が、中央ヨーロッパの多くの国からの追放者をドイツの占領地域に受け入れることで合意した。この3か国は、数百万人にも上る難民に衣食住を提供することが過大な負担となるため、チェコスロバキア政府に対して追放措置の実施を求めるということも、禁じるということもしなかった。実際には逆に、3か国はチェコスロバキア政府に国外追放者を減らすよう求めていたのである。チェコスロバキア政府は国内の数百万人の市民から没収した財産を再分配したことで支持を拡大させていった一方で、イギリス政府は戦争で疲弊していた自国の有権者に対して、ドイツ人難民により多くの支出をしなければならないということを伝えることが迫られていた。
* '''大統領令1945年法律5号''' - 「特定資産の無効に関する大統領令-弾圧に対する法的処置およびドイツ人、ハンガリー人、内通者および敵側協力者ならびに特定組織団体の資産の国家管理」(Dekret presidenta o neplatnosti některých majetkově - právních jednání z doby nesvobody a o národní správě majetkových hodnot Němců, Maďarů, zrádců a kolaborantů a některých organizací a ústavů)
* '''大統領令1945年法律12号''' - 「ドイツ人、ハンガリー人および内通者ならびにチェコ民族およびスロバキア民族の利敵者における農業財産の没収および分配促進に関する大統領令」(Dekret presidenta o konfiskaci a urychleném rozdělení zemědělského majetku Němců, Maďarů, jakož i zrádců a nepřátel českého a slovenského národa)
* '''大統領令1945年法律16号''' - 「ナチ犯罪者、内通者と加担者に対する処罰および特別人民法廷に関する大統領令」(Dekret presidenta o potrestání nacistických zločinců, zrádců a jejich pomahačů a o mimořádných lidových soudech)
* '''大統領令1945年法律27号''' - 「国内居住地の統一管理に関する大統領令」(Dekret presidenta o jednotném řízení vnitřního osídlení)
* '''大統領令1945年法律28号''' - 「ドイツ人、ハンガリー人ならびにチェコ、スロバキアおよびその他のスラブ民族農業者に対する国家敵性人物の居住地および農地に関する大統領令」(Dekret presidenta o osídlení zemědělské půdy Němců, Maďarů a jiných nepřátel státu českými, slovenskými a jinými slovanskými zemědělci)
* '''大統領憲法令1945年法律33号''' - 「ドイツ人およびハンガリー人のチェコスロバキア市民権に関する大統領憲法令」(Ústavní dekret presidenta o úpravě československého státního občanství osob národnosti německé a maďarské)
* '''大統領令1945年法律108号''' - 「敵性財産の没収および国家回復の資金に関する大統領令」(Dekret presidenta o konfiskaci nepřátelského majetku a Fondech národní obnovy)
 
== ヨーロッパの戦後清算とベネシュ布告 ==
ソビエト連邦にとって、民族ごとに対する残虐行為や大量没収はその後の集団訴訟の発端となった。加害者や暴利を得た者たちは略奪品をふたたび明け渡すことや罪に問われることを避けようと、自国においてソビエトの支配継続に頼るという状況に陥っていった。さらに大量没収によってほかのチェコスロバキア人の財産権に関する法的基準が緩められ、チェコスロバキアはその後、ソビエトの影響下にある国となっていったのである。
{{Seealso|ズデーテン地方}}
 
ベネシュ布告が争点となる機会が多いのは、布告では言及されていない1945年から1947年かわらず、けてチェコスロバキア市民であった国籍のドイツ人およそ260万人を1945年から1947年にかけてドイツやオーストリアに強制移転(追放)した事件である([[ドイツ人追放]])。布告支持派は、東ヨーロッパからドイツ人の脱出は[[ポツダム会談]]において戦勝国が取り決めたこと関係ある争点主張しなっている。
布告に対して賛成を唱える側も反対を唱える側も概して、布告の法的強制力によってチェコスロバキアはドイツ人やハンガリー人のマイノリティに、[[ナチス・ドイツ]]や[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー]]への[[利敵協力|利敵協力行為]]があったとして、財産没収やドイツ、[[オーストリア]]、ハンガリーへの国外追放を実行して処罰したのであると考えている。この利敵協力は、チェコスロバキアからの分離とナチス・ドイツおよびハンガリーへの併合を求めて戦闘したさいにあったとされている。布告支持派はこのときの戦闘を[[民族統一主義]]とするのに対し、布告否定派は、マイノリティの[[民族自決|自決権]]は[[第一次世界大戦]]後に否定されており、彼らの民族的な地域は彼らの望みに反してチェコスロバキアの一部にされたのだと主張している。
 
布告のなかには反逆罪に問われた戦時「内通者」や利敵協力者の財産没収に関するものがあったが、これらはドイツ人やハンガリー人全体に適用された。チェコスロバキア政府はドイツ系やハンガリー系のすべての国民の[[公民権]]を無効とした(ただし1948年にこの規定は、ハンガリー系の国民に対しては撤回されている)。この布告によって対象者が財産を没収され、またチェコスロバキア国内のドイツ系市民の約90%は国外追放された。
 
チェコスロバキアでは、チェコを支配下に置いた[[ナチス・ドイツ]]や、ナチスによるチェコスロバキア解体に乗じてスロバキアに侵攻し第一次大戦前のハンガリー王国復活を狙った[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー]]への[[利敵協力|利敵協力行為]]があったとして、ドイツ系およびハンガリー系住民に対し、財産没収やドイツ、[[オーストリア]]、ハンガリーへの国外追放を行った。
またドイツ系市民全体に対して[[コンラート・ヘンライン]]率いる[[ズデーテン・ドイツ人党]]を通じてナチスを支持し、[[第三帝国]]にドイツ系市民が居住するチェコの国境地方の併合を支援したということを責められた。ほぼすべての布告では、処罰規定は反ファシストには適用しないことが明確にうたわれていたが、「反ファシスト」という用語には明確な定義が与えられていなかった。およそ25万人のドイツ系市民がチェコスロバキアにとどまり、なかには反ファシストや産業にとって重要な人物とされたものもいる。ドイツ語を母語とする反ファシストの多くは[[アロイス・ウルマン]]が定めた特別合意のもとで移住したのである。
 
ベネシュ布告ではドイツ系およびハンガリー系住民全体に対し、内通者や利敵協力者として市民権を停止し、財産没収を行った。チェコスロバキア国内のドイツ系市民の約90%が国外追放された。またチェコスロバキア解体のきっかけとなったズテーデン地方のドイツ併合にドイツ系住民が大きな関わりを持ったことから、チェコ人の非難がドイツ系住民に集中した。
== 布告 33/1945 Sb. の廃止 ==
1948年4月13日、チェコスロバキア政府は布告 76/1948 Sb. を発し、チェコスロバキア国内に居住するドイツ人やハンガリー人について、布告 33/1945 Sb. で無効とされていたチェコスロバキア公民権を復帰させた。また 33/1945 Sb. 以降の布告についてもスロバキアの内務委員が布告 287/1948 Sb. によって無効とされた。
 
一方、ほぼすべての大統領令で、処罰規定は反ファシストには適用しないことが明確にうたわれていた。この「反ファシスト」には明確な定義が与えられておらず、結果としておよそ25万人のドイツ系市民がチェコスロバキアにとどまり、のちに反ファシスト運動や国内産業の発展に貢献した人物もいた。
== 現在 ==
89の布告と膨大なページ数にわたるその施行規定は2つを除いて、1993年に連邦を解消して成立した[[チェコ|チェコ共和国]]と[[スロバキア|スロバキア共和国]]でも法的に有効である。両国では第二次世界大戦の結果を覆さないようにするために、ベネシュ布告の効力を停止させることには消極的である。
 
=== 現在の政治関係における影響 ===
ベネシュ布告の半数なおものちに廃止されていない一部は[[チェコ|チェコ共和国]]および[[スロバキア|スロバキア共和国]]で現在も法的に有効である。両国では第二次世界大戦の結果を覆すこに結びつくとして、ベネシュ布告の効力停止に消極的姿勢を示しているが、隣国のオーストリア、[[ドイツ]]、[[ハンガリー]]との間の政治関係になお影響を与えている<ref>{{Cite web|last=Satra|first=Daniel|date=2004-06-04|url=http://www.radio.cz/de/artikel/54618|title=Meinungsseiten: Benes-Dekrete und tschechischer Irak-Einsatz|publisher=Radio Prag|language=ドイツ語|accessdate=2009-10-17}}</ref>。
 
チェコスロバキア国内から追放されちは[[追放者連盟]]に参加ドイツ系住民が組織する[[ズデーテン ・ドイツ人協会]]を組織しその関連政治団体は[[集団犯罪]]の原則に基づいてベネシュ布告の廃止を求めているものの、ヨーロッパや国際的な法廷は、[[人権]]に関するたいていの国際条約が1945/46年ベネシュ布告以降に発効しているとして、ベネシュ布告に関連する案件の裁定を拒否している。またチェコのミロシュ・ゼーマン元首相は、追放に対する賠償問題に発展する潜在的可能性を指摘し、布告の廃止は検討するべきではないと主張している。
 
[[スロバキア共和国国民議会]]は2007年9月20日、スロバキアのハンガリー人政党の一つ、ハンガリー人連立党(SMK)が提出したハンガリー人に対する賠償法案を否決した上で、戦後布告に関する異議申し立てを拒否する国民議会決議を採択。「戦後処理はナチズムの敗北と国際法の原則に基づくポツダム会議の結論に従ったもので、チェコスロバキア共和国およびスロバキア国民議会(いずれも当時)が行った戦後の決定は差別的慣行に基づくものではなく、これに関して現在新たな法律を制定することはできない」として、布告に基づく戦後処理による関連法令の制定および財産処分の結果について不可侵を宣言した<ref>[http://www.sme.sk/c/3495979/benesove-dekrety-su-nedotknutelne.html Benešove dekréty sú nedotknuteľné(ベネシュ布告は不可侵)] SME紙(電子版)、2009年9月20日付(スロバキア語)</ref>。
チェコの元首相[[ミロシュ・ゼーマン]]は、賠償を求めるドアを開ける潜在的可能性があるため、チェコは布告の廃止を検討するべきではないと主張している。チェコの元外相[[ヤン・カヴァン]]は[[タイム (雑誌)|タイム誌]]に対して「なぜベネシュ布告を取り上げなければならないのか。ベネシュ布告は過去のものであり、過去のもののままにしておけばよいのだ。いまの[[欧州連合加盟国]]にも似たような法令はあったのだ」と語っている<ref>{{Cite web|last=Wallace|first=P.|date=2002-05-11|url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,901020318-216394,00.html|title=Putting The Past To Rest|publisher=Time.com|language=英語|accessdate=2009-10-17}}</ref>。
 
2007年9月20日、[[これに対しスロバキア共和など中世[[ハンガリー王国民議会|スロバキア議会]]はベネシュ布告の効力を確認した。スロバキア系の議員は全員がこの決定支配地一円賛成したが、在住するハンガリー系マイノ民族保護政策を公約として掲げるハンガティ指導者[[ショーヨム・ラースロー]]大統領(当時)反対に票不快感投じた示し<ref>{{Cite web|date=2007-09-2021|url=http://index.hu/kulfold/benes5528benes0921|title=NemSólyom: nyúlhatnakElfogadhatatlan a Benes-dekrétumokhozszlovákok Szlovákiábandöntése|publisher=index.hu|language=ハンガリー語|accessdate=2009-10-17}}</ref>。ハンガリー大統領[[ショーヨム・ラースロー]]、2009年に民族主義者を刺激するとして混乱を懸念し訪問を見合わせるよう求めたスロバキア議会政府この決定について要請を無視しハンガリーとスロバキア南部コマールノ市関係を緊張状態イベント私用で出席するものだの名目で、マスコミを集め徒歩で国境の橋を強行越境しようとす示威行為を行ってスロバキアを非難した<ref>{{Cite web|date=2007-09-21|url=[http://indexspravy.hupravda.sk/kulfoldsolyom-zastal-na-hranici-slovenska-strana-mu-odoprela-vstup-pr6-/benes0921|titlesk_domace.asp?c=A090821_171716_sk_domace_p29 "Sólyom: Elfogadhatatlanzastal ana szlovákokhranici, döntése|publisher=index.hu|language=ハンガリslovenská strana mu odoprela vstup"(ショ語|accessdate=ヨムは国境で立ち止まり、スロバキア側は入国を拒否した)] Pravda紙(電子版)、2009-10-17}}年8月21日付(スロバキア語)</ref>。
 
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
{{wikisourcelang|cs|Benešovy dekrety}}
* [http://www.mzv.cz/decrees/ Second World War and its Impact]{{En icon}} - チェコ共和国外務省による
* {{Cite web|url=http://www.mkcr.cz/article.php?id=1008|title=Facing history - The evolution of Czech-German relations in the Czech provinces, 1848-1948|format=PDF|publisher=チェコ共和国文化省|language=英語|archiveurl=http://web.archive.org/web/20060114081002/http://www.mkcr.cz/article.php?id=1008|archivedate=2006-01-14|accessdate=2009-10-17}}