「細川藤賢」の版間の差分

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'''細川 藤賢'''(ほそかわ ふじかた、[[永正]]14年([[1517年]]) - [[天正]]18年[[7月23日 (旧暦)|7月23日]]([[1590年]][[8月22日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将。[[細川氏]]の分#典厩|細川典厩家]]当主。父は[[細川尹賢]]。兄は[[室町幕府]]最後の[[管領]]となった[[細川氏綱|氏賢]]。子に[[細川元賢|元賢]]。[[摂津国|摂津]][[堀城|中嶋城]]主。[[仮名 (通称)|仮名]]は四郎。[[官位]]は[[馬寮|右馬頭]]。
 
13代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義輝]]に仕えるが、義輝が[[松永久秀]]・[[三好三人衆]]に[[暗殺]]されると([[永禄の変]])、久秀に降伏。その後[[足利義昭]]が[[織田信長]]に擁立されて15代将軍となると、[[京都]]に戻り義昭に仕えた。京都に義昭の居城・[[二条城]]を作る際は藤賢の屋敷の庭にあった「藤戸石」という名石が使われた。この石を運ぶ作業の指揮は信長自らが行った。
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[[天正]]元年([[1573年]])に義昭が信長への兵を挙げようとした際にはこれを諌めた。しかし、聞き入れられずに義昭が挙兵すると藤賢も従う。その後は織田軍に城を包囲され、降伏。義昭は京都より追放されたが、藤賢は信長に許されて、[[近江国|近江]]の[[坂本城]]を任された。天正9年([[1581年]])の[[京都御馬揃え]]にも旧公方衆として参加しており、中国地方に落ち延びた義昭とは行動を共にしなかった模様。
 
天正18年(1590年)、京都にて74歳で没した
 
== 関連項目 ==
*[[東大寺大仏殿の戦い]]
*[[野田城・福島城の戦い]]
*[[細川信良|細川昭元]]
 
{{先代次代|[[細川氏|細川氏 (典厩家)]]|細川藤賢|[[細川氏綱]]|[[細川元賢]]}}
 
{{細川氏|細川典厩家|1563年 - 1590年|第6代}}
{{DEFAULTSORT:ほそかわ ふしかた}}
[[Category:細川氏|ふしかた]]