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[[ファイル:Palast der Republik 01 june 1977.jpg|thumb|300px|right|ベルリンの共和国宮殿、1977年 (taken by István Csuhai, Hungary) ]]
'''共和国宮殿'''(きょうわこくきゅうでん {{lang-de|'''Palast der Republik'''}})は[[ドイツ民主共和国]](東ドイツ)の首都[[東ベルリン]]の中心部にあった建物。[[シュプレー川]]の中州のシュロスプラッツ({{lang|de|Schlossplatz}}、王宮広場)と[[ルストガルテン]]({{lang|de|Lustgarten}})の間に建つ近代建築で、東ドイツの[[人民議会 (東ドイツ)|人民議会]]({{lang|de|Volkskammer}})の議場と[[コンサートホール]]、[[美術館]]、[[ボウリング]]場、[[ディスコ]]、13の[[レストラン]]・[[カフェ]]・[[バー]]、[[ボウリング]]場、[[ディスコ]]などが入居していた。[[プロイセン王国]]の宮殿・[[ベルリン王宮]]({{lang|de|Stadtschloss}})の跡地に[[1976年]]に完成したが、[[1990年]]に閉鎖され、[[2006年]]から解体工事に入り[[2008年]]末には完全に撤去された。
 
== 建設 ==
[[ファイル:Stamp PdR.jpg|thumb|220px|right|共和国宮殿の竣工を記念する切手、1976年]]
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-1986-0417-414, Berlin, XI. SED-Parteitag, Eröffnung.jpg|thumb|left|大ホールで開かれる党大会、1986年]]
かつて[[シュプレー川]]の中州には[[ベルリン王宮]]があったが、[[1945年]]の[[ベルリン空襲|空襲]]と[[ベルリン市街戦]]で大きく破壊された。その廃墟は修復可能ではあったものの、東ドイツ政府によってプロイセン[[軍国主義]]のシンボルであるとされ[[1950年]]に爆破解体された。王宮南側のシュロスプラッツ、北側の[[ルストガルテン]]、その中間の王宮跡地はともに舗装され、[[1951年]]から[[1994年]]までマルクス・エンゲルス広場({{lang|de|Marx-Engels-Platz}})の名で呼ばれ[[パレード]]などの会場として使用されていた。
 
ベルリン都心にできた空地をめぐり、[[1950年代]]前半には東ドイツによる超高層の政府ビル案もあったが実現には至らなかった。[[1958年]]に[[西ドイツ]]政府が世界の建築家を招いて開いた将来の「首都ベルリン」をテーマにした[[建築設計競技]]ではこの一帯を文化ゾーンとする案が評価され、これに対抗して東ドイツ政府が開いた独自の建築設計競技では一帯を政治の中心とする案が出された。
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[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-1990-0419-418, Berlin, Volkskammer während Regierungserklärung von Lothar de Maiziere.jpg|thumb|220px|人民議会の議場 1989年]]
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-R0706-417, Berlin, Palast der Republik, Jugendtanz.jpg|thumb|left|華やかなロビー]]
[[1960年代]]から王宮跡地のうち東半分に政府ビルの建設が計画され、ハインツ・グラフンダー({{lang|de|Heinz Graffunder}})他5名の建築家の設計により[[1973年]]から3年にわたる工事の末、[[1976年]][[4月23日]]に共和国宮殿のオープンが祝われた。東ドイツの一般的で簡素な建築様式で設計された共和国宮殿は、南北の長さ180 m、東西の幅85 m、高さ32 m で6階建ての、白い大理石にブロンズミラーガラス張りの外観であり、中は大ロビーに吊るされた1001個のランプを筆頭に白く輝く大理石の華やかな内装が行われていた。北側の小ホールは人民議会の議場として使われ、一方幅67m・高さ18mの六角形の大ホールは党大会のほか劇・コンサート・テレビ番組の公開収録などに使われ、可動式の天井や壁により大人数から少人数まで多様な用途に利用できた。大ロビーなどは東ドイツの芸術家たちの作品で飾られた。
 
東ベルリン市民からは「共和国の[[バラスト]]」({{lang|de|Ballast der Republik}}、「{{lang|de|Palast der Republik}}」のもじり)、「エーリッヒのランプ店」(Erichs Lampenladen、当時の最高権力者[[ドイツ社会主義統一党]][[書記長]][[エーリッヒ・ホーネッカー]]と大量のランプから)、「パラッツォ・プロッツォ」({{lang|it|Palazzo Prozzo}}、お威張り宮殿、「自慢」を意味するProtzをイタリア語風にしたあだ名)などと悪口を言われた<ref>http://www.goethe.de/ins/prj/life/nov/ja204346.htm 「共和国宮殿から民衆宮殿へ」, シュテファニー・ヴルスター, 2004, ゲーテ・インスティテュート(日本語)</ref>が、音楽イベントの行われるホールやレストラン、バーといった部分は人多く集まり、東ベルリン随一の人気スポットであとなていた。
 
[[ファイル:Palast der Republik.jpg|thumb|220px|right|内装を取り払われた大ホール]]
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== アスベスト問題 ==
[[ファイル:Palast der Republik 2004-10.jpg|thumb|220px|right|共和国宮殿、2004(2004)。臨時の文化イベント会場として使用されていた]]
[[ドイツ再統一]]([[1990年]]10月)の直前、共和国宮殿の内部に大量の[[石綿|アスベスト]]が使われていることが分かったため、人民議会の決定で[[1990年]][[9月19日]]から宮殿は一般の立ち入りが禁止されることになった。[[2003年]]までにアスベストのすべて、および内装は除去されて取り壊しができる状態となった。
 
がらんどうの建物は2003年夏から一般に公開されたが、建築家や演劇人などからなる圧力団体「中間宮殿使用登録団体」が政府に対して取り壊しまでの間文化イベントのために自由に使わせるよう運動を起こし、[[2004年]]春からは様々なプロジェクトや展覧会が開催され多数の観客を集めた。現代美術展、中国の[[兵馬俑]]展、建築と都市に関するシンポジウム、[[アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン]]のライブなどがその一部である。
 
== 解体 ==
[[ファイル:FlaechePalastderRepublik.JPG|thumb|left|2009年9月の宮殿跡地臨時のサッカー場となっている]]
[[ファイル:Palast der Republik und Fernsehturm.jpg|thumb|220px|解体される共和国宮殿(2007年夏)]]
共和国宮殿は東ドイツの負の歴史を物語り、東ドイツ生活の記憶と結びついた象徴的な建物であるとして、取り壊しに反対するデモや集会もあった。しかし2003年11月、ドイツ連邦議会は共和国宮殿の取り壊しと、ベルリン王宮の再建資金が集まるまでの間は跡地を駐車場にすることを議決した。解体は[[2006年]][[2月6日]]から15カ月の予定で始まった。解体作業は周囲の歴史的建造物、例えば[[ベルリン大聖堂]]などに衝撃を与えないよう慎重にゆっくりと進められており、解体費用は1,200万ユーロに達すると見積もられている。しかしさらにアスベストが発見されるなどして作業は遅れ、解体完了は[[2008年]]末にずれこんだ。解体後、共和国宮殿跡は地面が穴のように大きくむき出しになった状態で、敷地の一部にはカラフルなコンテナ型をした仮設美術館が建っている。
 
王宮の再建資金の募集は続いており、最低でも4億ユーロは必要とみられている。