「ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
23行目:
共和政ローマでは[[グラックス兄弟]]による一連の改革に始まり、[[ガイウス・マリウス]]や[[ルキウス・コルネリウス・スッラ]]による支配、[[ポプラレス]](平民派)と[[オプティマテス]](閥族派、元老院派)の争いなど後世「[[内乱の一世紀]]」と呼ばれる政情不安な状態が続いていた。[[紀元前59年]]にポンペイウス、カエサル、[[マルクス・リキニウス・クラッスス]]は[[三頭政治|第一回三頭政治]]と後に呼ばれる統治体制を構築して権力を握り、カエサルは自身の娘[[ユリア (ガイウス・ユリウス・カエサルの娘)|ユリア]]をポンペイウスへと嫁がせたことで基盤を固めた。その後、カエサルはガリアなど3つの属州の総督として赴任して[[ガリア戦争]]を戦い、[[紀元前55年]]にはポンペイウスとクラッススが共に[[執政官]](コンスル)を務めた。
 
しかし、[[紀元前54年]]にユリアが死去、[[紀元前53年]]に[[パルティア]]との[[カルラエの戦い]]でクラッススも戦死したことで第一回三頭政治が崩壊した。また、カエサルがガリア遠征の成功によりポンペイウスと同等の軍事上の権限を得たことに対し、元老院派はカエサルの権力拡大を危惧してポンペイウスと接近した。[[紀元前52年]]には[[プブリウス・クロディウス・プルケル]]暗殺に伴うローマ国内の混乱へ対処するため、ポンペイウスを唯一のコンスルに選出した。元老院はカエサルがガリア総督としての任期切れ後にコンスルに立候補する意向であることを知り、カエサルから軍隊を引き離すことを模索した。[[紀元前50年]]12月、カエサルはポンペイウスも軍隊を解散させるならば自分も軍隊を手放すと元老院に伝書を送ったが、元老院はカエサルが不法に軍を維持するのならば「国家の敵」と宣告するとした。
 
カエサルの幕僚である[[マルクス・アントニウス]]及び[[クィントゥス・カシウス・ロンギヌス]]はカエサルからの「応じられない」とする意向を元老院へ伝えたが、元老院はこれを拒否した。
 
[[紀元前50年]]、ポンペイウス及び元老院派は[[プロコンスル]](前執政官)としてのカエサルの任期が終わったことを受けて、ローマに戻り軍を解散するよう指示し、カエサルがコンスルに立候補するのを禁じた。カエサルはコンスルの地位も軍隊の力もなしにローマに戻るなら、[[スキピオ・アフリカヌス]]のごとく罪に問われ、政治的に失脚させられると考えた。紀元前49年1月、元老院はカエサルに対して「[[セナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムム|元老院最終勧告]]」を発した。
 
== 経過 ==
=== ルビコンを渡る ===
紀元前49年1月10日、カエサルは子飼いの部隊である[[第10軍団エクェストリス|第10軍団]]と共に、[[ガリア・キサルピナ]]とイタリア本土の境界である[[ルビコン川]]を渡るという決定的な一歩を踏み出した(イタリア本土(ルビコン以南、[[ブリンディシ|ブルンディシウム]]以北)へ軍隊を率いて侵入することは禁じられていたが、実際は過去にマリウスやスッラも攻め込んでいる)。なお、この際にカエサルは "Jacta alea est"([[賽は投げられた]])と述べた。
 
ローマへのカエサルの進撃に対して、無防備なローマにいることを嫌ったポンペイウスはローマから逃れた。ポンペイウスには影響下にある軍隊がいくつかあり、その中の[[ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス (紀元前54年の執政官)|ドミティウス・アエノバルブス]]に対してカエサルがローマに着く前に途中で追捕するよう指示を出したものの、カエサルはドミティウス軍をコルフィニウム(現:[[コルフィーニオ]])で打ち破った。カエサルはローマへ向かわずにポンペイウスを追ってさらに南下。ポンペイウスは自身の地盤である東方属州へ向かうためにブルンディシウムを目指し、[[クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカ]]や[[マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス|マルクス・ポルキウス・カト]]ら元老院議員もポンペイウスに合流するため南へ逃れた。
紀元前49年1月10日、カエサルは子飼いの部隊である[[第10軍団エクェストリス|第10軍団]]と共に、[[ガリア・キサルピナ]]とイタリア本土の境界である[[ルビコン川]]を渡るという決定的な一歩を踏み出した(イタリア本土(ルビコン以南、[[ブリンディシ|ブルンディシウム]]以北)へ軍隊を率いて侵入することは禁じられていたが、実際は過去にマリウスやスッラも攻め込んでいる)。なお、この際にカエサルは "Jacta alea est"([[賽は投げられた]])と述べた。
 
ローマへのカエサルの進撃に対して、無防備なローマにいることを嫌ったポンペイウスはローマから逃れた。ポンペイウスには影響下にある軍隊がいくつかあり、その中の[[ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス (紀元前54年の執政官)|ドミティウス・アエノバルブス]]に対してカエサルがローマに着く前に途中で追捕するよう指示を出したものの、カエサルはドミティウス軍をコルフィニウム(現:[[コルフィーニオ]])で打ち破った。カエサルはローマへ向かわずにポンペイウスを追ってさらに南下。ポンペイウスは自身の地盤である東方属州へ向かうためにブルンディシウムを目指し、[[クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカ]]や[[マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス|マルクス・カト]]ら元老院議員もポンペイウスに合流するため南へ逃れた。
 
カエサルはポンペイウスへ会談をするように申し出たが、ポンペイウスはこれを拒否。その後カエサルもブルンディシウムへ到着したものの、紀元前49年3月にポンペイウスは自軍の船隊と共にギリシアまで逃れていた。この時カエサルの金庫は空っぽになっていたので、彼は元老院派との戦いに備えてローマの国庫の金を軍資金に充てた。<ref>プルタルコスの『列伝』には次のようなエピソードがある。この時、国庫に入ろうとするカエサルを[[護民官]]のメテッルスが阻止しようとしたため、カエサルは「若造、邪魔をするなら殺すぞ!」と脅してメテッルスを追い払った、というものである。しかし当時のカエサルはまだ前執政官であり、国庫のあるフォロ・ロマーノ市内に入れないはずなので、事実と異なっている可能性が大きい。もっともカエサル軍が国庫の金を軍資金に使ったのは事実のようである。</ref>
46 ⟶ 45行目:
=== ファルサルスの戦い ===
{{see also|ファルサルスの戦い}}
紀元前48年7月、カエサル軍は元老院派の兵站基地でもあったデュッラキウム(現:[[ドゥラス]])の包囲戦を展開([[デュッラキウムの戦い]])したものの、元老院派軍の前に敗走した。しかし、ポンペイウスは寄せ集めの自軍がカエサルの精鋭軍を破ったと信じられず、カエサル軍の後退も罠と信じて掃討戦は行わなかった。結果、ポンペイウスは内戦を早期に終わらせる機会と勝機を失った。8月に両軍はギリシア北部のファルサルスで再度激突、カエサル軍より歩兵も騎馬兵共にはるかに多勢の元老院派軍であったが、敗北した([[ファルサルスの戦い]])
 
8月に両軍はギリシア北部のファルサルスで再度激突、カエサル軍より歩兵も騎馬兵共にはるかに多勢の元老院派軍であったが、敗北した([[ファルサルスの戦い]])。この戦闘の結果、元老院派の中でドミティウスが戦死、[[マルクス・クラウディウス・マルケッルス (紀元前51年の執政官)|マルクス・クラウディウス・マルケッルス]]やヒスパニアで敗北したウァロ、[[マルクス・トゥッリウス・キケロ]]、[[ガイウス・カッシウス・ロンギヌス]]や[[マルクス・ユニウス・ブルトゥス]]らが陣営を離れ、カエサルに降伏した。ポンペイウスと[[ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・クルス]]は再起を図るべくエジプトに逃がれたものの紀元前48年9月に国王[[プトレマイオス13世]]の側近によって殺害された。メテッルス・スキピオ、アフラニウスとカトは北アフリカに逃れた。ローマ元老院はカエサルを[[独裁官]](ディクタトル)に任命したが、11日後にディクタトルを辞職してコンスル(2期目)に選出された。
 
カエサルはポンペイウスを追って[[アレクサンドリア]]へ渡ったが、既にポンペイウスは殺害されていた。[[プトレマイオス朝]]ではプトレマイオス13世および彼の姉[[アルシノエ4世]]と、プトレマイオス13世の妻として共同でファラオの座にあった[[クレオパトラ7世]]が争う状態であったが、ポンペイウスを殺害したプトレマイオス13世の責任を強く見た(贈り物としてプトレマイオス13世の侍従が手渡したポンペイウスの首を見てカエサルは涙したと伝えられる)こともあって、カエサルはクレオパトラ7世の側について彼女を勝利に導き、クレオパトラ7世がプトレマイオス朝の実権を握った(名目上は[[プトレマイオス14世]]との共同統治)。<!-->なお、カエサルとクレオパトラの間にはプトレマイオス15世([[カエサリオン]]として知られる)が生まれたが、非ローマ国民との結婚を禁止したローマ法のため婚姻関係はなかった{{要出典}}。<-->
 
=== ファルサルスの戦い以降 ===
{{see also|タプススの戦い|ムンダの戦い}}
[[紀元前47年]]のうち、1か月をエジプトで過ごしたカエサルは、ローマ内戦の間隙を突くかたちで[[ポントス]]王[[ファルナケス2世]]がローマ領へ侵攻したのを受けて、カエサルは[[シリア属州]]を経てポントスへ向かい、カエサルはファルナケス2世に[[ゼラの戦い]](現在の[[トルコ共和国]][[ジレ]])で勝利。この際、カエサルはローマの友人へ "Veni, vidi, vici"([[来た、見た、勝った]])という内容の手紙を送っている。ファルナケス2世は[[ボスポロス王国]]まで退去して、[[スキタイ]]族と[[サルマタイ]]族からなる軍を構成し、いくつかの都市を支配下に置いたが、軍内部の人間によって殺害された([[アッピアノス]]はファルナケス2世が戦死したとする一方、[[カッシウス・ディオ]]は捕らえた後に殺されたとする)。
 
紀元前47年、カエサルは北アフリカ・[[ウティカ]]に逃れた元老院派の残党を追討するため出発。メテッルス・スキピオらが率いる元老院派及びユバ1世率いるヌミディア連合軍を[[紀元前46年]]4月に[[タプススの戦い]]で撃破し、その後メテッルス・スキピオ、アフラニウスらは殺害された。さらにカエサル軍はウティカを攻撃しウティカに籠城していたカトは支えきれずに自殺、ユバ1世も逃亡を図ったが自殺してヌミディア王国は断絶した(後に息子([[ユバ2世]])は[[マウレタニア]]王に即位)。
 
ポンペイウスの長男グナエウス・ポンペイウス([[グナエウス・ポンペイウス・ミノル|小ポンペイウス]])と次男[[セクストゥス・ポンペイウス]]、そして[[ティトゥス・ラビエヌス]]らはヒスパニアに逃れて、当地で兵を集めた。ヒスパニアを守備していた[[ガイウス・トレボニウス]]を圧迫する勢いであったため、紀元前46年夏に凱旋式を終えたカエサルはヒスパニアへ出兵し、[[紀元前45年]]3月[[ムンダの戦い]]で元老院派を撃破してラビエヌスは戦死、小ポンペイウスは逃亡途中で殺害された。セクストゥスは大西洋岸まで逃亡したものの、ムンダでの勝利を以て一連の内乱は終結を見た。