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| 出身地=
| 職業=軍人、政治家
| 簡体字={{lang|zh-hans|朱德}}
| 繁体字={{lang|zh-hant|朱德}}
| ピン音={{lang|zh-hant|Zhù Dé}}
| 通用=
| 注音=
| 注音二式=
| 和名=しゅ とく
| 発音=ュー ドゥー
| ラテン字=Chu The
}}
 
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[[1922年]]初めに上海に出た朱徳は、[[孫文]]に面会し、革命の遂行と成功は、[[軍閥]]との共闘では実現不可能であり、独自の軍隊組織を持つことの必要性を説いた。軍人としての経験と、革命思想の発露であったろう。また、国民党軍に参加していた経歴も孫文の胸襟を開かせる一助になったことは想像に難くない。
 
孫文との面談を終えた後、朱徳は中国共産党への入党を申請した。しかし、共産党の指導者である[[李大ショウ|李大釗]]は、朱徳が国民党員ではないとはいえ、国民党軍で勇名を馳せていたので、彼の入党に難色を示した。李大釗は朱徳に対し、引き続き切磋琢磨し、機会を見て再度入党申請を出すように諭した。朱徳は失意の内にドイツに渡り、[[社会主義]]理論を学んだ。同年、ドイツで[[周恩来]]と出会う。さすがにその場での入党はかなわなかったが、翌[[1923年]]、周恩来の口添えで入党が許可された。なお、中国共産党史の扱いでは、1922年に李大釗に入党申請した時点で共産党員となったことになっている。
 
ドイツ留学中に2度労働運動に参加し、2回目の労働運動で官憲に捕縛された朱徳は放校になってしまう。そのため、[[1925年]]にドイツからソ連に移動し、[[モスクワ中山大学]]で軍事を学ぶ。この中で、朱徳は当時の軍閥が割拠する中国には地方利権保護的な資本主義や、軍閥を支える地方のプチブルを生む土壌となった私有財産制を制限する社会主義革命が必要であること、しかしそのためには軍閥を打倒する戦闘行為を避けて通れないこと、社会主義化を支えるのは共産党であるが、非合法で地下組織の状態では[[ゲリラ]]戦が有効であることなどを導き出したと思われる。ソ連留学中に教官に提出したゲリラ戦に関するレポートは緻密なものであり、軍人朱徳の真骨頂であったと言う。
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[[1927年]][[8月1日]]<ref>南昌蜂起が勃発したこの日は、中国人民解放軍の創立記念日となっている。</ref>、[[南昌蜂起]]を指導。蜂起自体は失敗に終わったが、その後、共産党の軍事組織[[紅軍]]の主要な指導者の一人となり、[[1928年]]には紅軍第四軍の軍長を務める。朱徳はこの頃、[[井崗山]]で[[毛沢東]]と共に後の八路軍に通じる基本戦略を打ち立てた。それは、「敵が進めば我は退き、敵が休めば我は撹乱し、敵が疲れたら我は打ち、敵が退けば我は進む」という言葉(いわゆる十六字訣)に象徴される徹底したゲリラ戦術である。
 
[[長征]]においても、朱徳は[[張国トウ|張国&#x71FE;]]らとともに別働隊を指揮するなどの重要な役割を果たした。しかし、張国燾は北進に反対して指揮権を奪い、朱徳は張国燾と行動を共にすることを余儀なくされた。[[1936年]]10月、ようやく甘粛省にて党中央と合流を果たした。
 
[[1937年]]、[[日中戦争]]が始まり[[第二次国共合作]]が成立すると、[[国民政府]]より[[国民革命軍]]上将(大将)の階級を授与され、[[八路軍]]総司令に就任。その後、[[国共内戦]]では中国人民解放軍総司令を務めた。