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|その後:
|[[1942年]][[10月19日]]に沈没
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!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|性能諸元
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|機関:
|[[バブコック&ウィルコックス]]缶3基、ウェスティングハウス・タービン2基、50,000 hp (37 MW)
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|最大速:
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|兵装:
|[[Mk 30 5インチ砲|38口径5インチ砲]]×5基<br />[[ブローニングM2重機関銃|12.7mm単装機関銃]]×4基<br />533mm4連装[[魚雷発射管]]×2基8門<br />[[爆雷]]投下軌条2基
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|航空機:
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|}
</div>
'''オブライエン'''('''USS O'Brien, DD-415''')は、[[アメリカ海軍]]の[[駆逐艦]]。[[シムス級駆逐艦]]の7番艦。艦名は[[アメリカ独立戦争]]時の軍人、
==艦歴==
オブライエンは1938年5月31日に[[ボストン海軍工廠]]で起工され、1939年10月20日にジョセフィン・オブライエン・キャンベル(ギデオン・オブライエンの子孫)によって命名、進水、1940年3月2日にカール・F・エスペ少佐の指揮下就役した。艦は[[
===太平洋戦線===
1942年1月15日、オブライエンは[[
3月4日、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]は新鋭の[[二式飛行艇]]を使ってハワイ爆撃を行う([[K作戦]])。これを受け、アメリカ海軍では二式飛行艇がどこから飛来してきたのか検討し始めたが、やがて「[[フレンチフリゲート瀬]]に潜水艦を待機させて中継補給を行い、爆撃してきたのではないか」と結論付けられた<ref>秦, 107、108ページ</ref>。そこで、フレンチフリゲート瀬など[[北西ハワイ諸島]]の警戒を強めた<ref>秦, 108ページ</ref>。オブライエンも3月後半に一連の警戒に加わり、その後は[[ミッドウェー島]]へ在島の民間人を収容するために派遣される[[水上機母艦]][[:en:USS Curtiss (AV-4)|カーティス]] (''USS Curtiss, AV-4'') の護衛を行い、4月3日に真珠湾に帰投した。対空兵装の強化工事を受けた後の4月18日、駆逐艦[[:en:USS Flusser (DD-368)|フラッサー]] (''USS Flusser, DD-368'') 、[[:en:USS Mugford (DD-389)|マグフォード]] (''USS Mugford, DD-389'') とともに[[パルミラ環礁]]の海軍航空基地へ向かう要員を乗せて真珠湾を出港。任務終了後、サンディエゴおよびサンフランシスコから[[アメリカ領サモア|サモア]]へ向かう船団に合流して護衛陣に加わり、4月28日に[[パゴパゴ]]に到着した。5月26日には、[[自由フランス軍]]による[[ウベア島|ウォリス島]]の占領を支援した。占領後の6月19日、貨物輸送艦[[:en:USS Procyon (AKA-2)|プロキオン]] (''USS Procyon, AKA-2'') と合流し真珠湾に帰投した。8月17日、オブライエンは{{仮リンク|第17任務部隊|en|Task Force 17}}([[フランク・J・フレッチャー]]中将)に加わり、給油艦[[:en:USS Guadalupe (AO-32)|グアダルーペ]] (''USS Guadalupe, AO-32'') の護衛を務めた。
▲1942年1月15日、オブライエンは[[ノーフォーク (バージニア州)|ノーフォーク]]を戦艦[[アイダホ (戦艦)|アイダホ]]、駆逐艦[[マスティン (駆逐艦)|マスティン]]と共に出港して太平洋に向かい、[[パナマ運河]]経由で1942年1月31日に[[サンフランシスコ]]に到着した。オブライエンは2月4日、船団と共に西太平洋へ向けて出港したが駆逐艦[[ケース (DD-370)|ケース]]と衝突したため引き返した。[[メア島]]で修理を行い、それから[[サンディエゴ]]経由で[[真珠湾]]へ向かった。
===沈没===
[[Image:USSOBrienDD415_torpedo.jpg|left|thumb|伊19からの魚雷が命中したオブライエン(1942年9月15日)]]▼
8月8日に[[ガダルカナル島の戦い]]が始まり、[[第一次ソロモン海戦]](8月8日、9日)、[[第二次ソロモン海戦]](8月24日)と2つの大きな海戦も起こっていた。海戦でなくても日米双方の艦隊、[[機動部隊]]は[[ガダルカナル島]]周辺や近隣海域で戦闘や護衛任務を行っていた。第17任務部隊もガダルカナル島行きの輸送船団の間接護衛にあたっていた<ref name="a">木俣, 311ページ</ref>。その第17任務部隊は、8月31日に空母[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]] (''USS Saratoga, CV-3'') が[[伊号第二六潜水艦|伊号第二六潜水艦(伊26)]]の雷撃で損傷してフレッチャー中将とともに戦場を去り、[[ジョージ・D・マレー]]少将座乗の[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]] (''USS Hornet, CV-8'') が代わりに加入<ref name="a" />。[[トーマス・C・キンケイド]]少将の第16任務部隊も[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]] (''USS Enterprise, CV-6'') が第二次ソロモン海戦で損傷したため後方に下がり、代わりに[[ワスプ (CV-7)|ワスプ]] (''USS Wasp, CV-7'') を基幹とする第18任務部隊(レイ・ノイズ少将)が戦場に到着し、2つの任務部隊でガダルカナル島の戦いを援護していた<ref>永井、木俣, 150、151ページ</ref>。
{{節stub}}
▲[[Image:USSOBrienDD415_torpedo.jpg|left|thumb|魚雷が命中したオブライエン]]
1942年8月17日、オブライエンは[[第17任務部隊]]と出撃した。9月15日、日本の潜水艦[[伊号第一九潜水艦|伊
オブライエンは[[第二次世界大戦]]の戦功で1個の従軍星章を受章した。
===脚注===
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* 永井喜之、木俣滋郎『撃沈戦記』[[朝日ソノラマ]]、1988年、ISBN 4-257-17208-8
* 木俣滋郎『日本潜水艦戦史』図書出版社、1993年、ISBN 4-8099-0178-5
* 「世界の艦船増刊第43集 アメリカ駆逐艦史」海人社、1995年
* [[秦郁彦]]「真珠湾上空の二式大艇」『太平洋戦争航空史話 (下)』中公文庫、1995年、ISBN 4-12-202371-8
* 岡田幸和『<span style="font-size:90%;">世界の艦船別冊</span> 艦艇工学入門 <span style="font-size:90%;">-理論と実際-</span>』海人社、1997年、ISBN 4-905551-62-5
* M・J・ホイットレー/岩重多四郎(訳)『第二次大戦駆逐艦総覧』大日本絵画、2000年、ISBN 4-499-22710-0
==関連項目==
* [[アメリカ海軍艦艇一覧]]
* [[第二次世界大戦中のアメリカ海軍の喪失艦一覧]]
* [[酸素魚雷]]
==外部リンク==
*[http://www.navsource.org/archives/05/415.htm navsource.org]
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{{coord|13|30|S|171|18|W|display=title}}
{{シムス級駆逐艦}}
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