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== 歴史 ==
=== 英領カナダの議会 ===
[[1754年]]から[[1763年]]にかけて行われた[[フレンチ・インディアン戦争]]の結果、[[イギリス]]が[[フランス]]からカナダ(当時は[[ケベック州|ケベック植民地]])の支配権を奪取すると、カナダは[[1763年国王宣言]](Royal Proclamation of 1763)の下に統治されることとなった。[[1774年]]にケベック法(Quebec Act)が制定されると国王宣言は失効し、立法権はイギリス国王の任命する地方長官(Governor)及び評議会(Council)に与えられた。[[1791年]]にケベックは、アッパー・カナダ(後の[[オンタリオ州]])とロウアー・カナダ(後の[[ケベック州]])に分割され、それぞれが直接任命の議会(Legislative Assembly)と立法評議会(Legislative Council)を持つこととなった。
 
[[1841年]]にイギリス議会がアッパー・カナダとロウアー・カナダを統合して、カナダと呼ばれる新植民地を成立させた。それに伴って、選挙で議員が選ばれる議会と任命制の立法評議会から成る単一の立法府が創設された。立法議会の議席は、統合前のロウワー・カナダの方が人口は多かったにもかかわらず、かつてのアッパー、ロウワー両カナダに等しく割り当てられた。当時のイギリス議会は、国王の任命するカナダ総督を通じて、カナダ植民地における諸事に少なからぬ影響力を行使していた。しかし[[1848年]]にカナダ植民地が自前の責任政府(responsible government)を持つに至ると、イギリス本国の影響力は低下した。
[[画像:Parliament3-big.jpg|right|250px|thumb|オタワ川から議事堂を望む]]
 
[[1843年]]にカナダ議会はオンタリオ州キングストンから[[モントリオール]]に移転されたが、[[1849年]]に議会は火災により消失した。この火災は、フランス系住民とイギリス系の住民との間で高まった緊張や経済的不況が折り重なったことから、トーリー党(保守派)に扇動された暴動によって引き起こされた。その後数年間、議会は[[トロント]]と[[ケベック]]の間を転々とするが、[[1857年]]になって最終的に[[オタワ]]に腰を落ち着けることになった。
 
=== 自治領カナダの議会 ===
しかし、現代のカナダ議会の姿は[[1867年]]になって初めて現れることになる。この年、イギリス議会は[[英領北アメリカ法]]を成立させ、カナダ([[ケベック州|ケベック]]と[[オンタリオ州|オンタリオ]])、[[ノバスコーシア州|ノバスコーシア]]、[[ニューブランズウィック州|ニューブランズウィック]]の各植民地を一つに統合し、ここに自治領カナダ(Dominion of Canada)が誕生することになった。そして新たな立法府が、女王(総督が代理)、上院、下院から構成されることとなった。
 
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[[1931年]]にイギリス議会で[[ウェストミンスター憲章]]が採択されるとカナダの自治権は大きく拡大することとなった。同憲章において、カナダ議会はカナダ領域内の法適用に関しイギリス法を無効とし又は修正することが認められたものの、[[英領北アメリカ法]]を含むカナダ憲法を廃止する権限までは与えられなかった。故に、カナダ議会が憲法改正を行おうとする場合には、常にイギリスにおける立法が必要とされていた。もっとも、イギリス議会は一方的にカナダ連邦に対し改正を強いることはなく、カナダ議会が改正を求める場合に限り動くといった穏健な状況にあった。
 
=== 独立国家カナダの議会 ===
[[1949年]]のイギリス議会法(British Act of Parliament in 1949)において、カナダ議会には憲法改正について限定的な権限を付与されたが、州政府の権限、英語とフランス語の公用語としての位置づけ及び議員の任期5年について影響を及ぼす改正を行うことは許されていなかった。