「天誅組の変」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
36行目:
幕府は[[紀州藩]]、[[津藩]]、[[彦根藩]]、[[郡山藩]]などに天誅組討伐を命じた。9月1日、朝廷からも天誅組追討を督励する触書が下される。9月5日、忠光が吉村らに再度合流して天の辻の本陣へ帰った。諸藩の藩兵が動き出し、6日、紀州藩兵が富貴村に到着、天誅組は民家に火を放って撹乱した。7日、天誅組先鋒が大日川で津藩兵と交戦して、これを五条へ退ける。天誅組は軍議を開き大坂方面へ脱出することを策す。
 
8日、幕府軍は総攻撃を10日と定めて攻囲軍諸藩に命じた。総兵力14000人に及ぶ諸藩兵は各方面から進軍、天誅組は善戦するものの、主将の忠光の命令が混乱して一貫せず、兵たちは右往左往を余儀なくされた。忠光は統率力を失って脱退する者も出始め、天誅組の士気は低下する。14日、紀州・津の藩兵が吉村らの守る天の辻を攻撃、吉村は天の辻を放棄した。(なお紀州藩は三千九百もの兵をくり出したが郷士・農民などに討たれては不面目とでも思ったのか大半の者は及び腰であり、結果紀伊藩の戦闘の中核を担ったのは非正規軍である津田正臣の農兵隊北畠道龍の法福寺隊(別名・日本体育共和軍隊)であった)。
忠光は天険を頼りに決戦しようとするが、朝廷は[[十津川村|十津川郷]]に忠光を逆賊とする令旨を下し、十津川郷士は変心して忠光らに退去を要求する。19日、進退窮まった忠光は遂に天誅組の解散を命じた。