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[[肥前国]][[西松浦郡]]大川内村(現:[[佐賀県]][[伊万里市]])出身。[[草場船山]]の塾で[[漢学]]を学ぶ。[[府県会|佐賀県会]]議員、[[府県制|佐賀県参事会]]員、佐賀県会議長、佐賀日日新聞社長などを歴任。
 
[[1892年]]2月、[[第2回衆議院議員総選挙]]に佐賀県第二区で[[中央交渉会|中央交渉部]]から出馬し初当選。次の[[第3回衆議院議員総選挙]]では[[国民協会 (日本 1892-1899)|国民協会]]から出馬するも落選。[[1902年]]8月、[[第7回衆議院議員総選挙]]の佐賀県郡部区に[[立憲政友会]]から出馬し当選し、[[1928年]]2月の[[第16回衆議院議員総選挙]]まで連続10回、通算で11回の当選を果たした。
 
所属政党では立憲政友会総務などを務めたが、[[1924年]]、立憲政友会の[[床次竹二郎]]ら改革派が脱党し結成した[[政友本党]]に移り総務を務めた。[[1927年]]、政友本党と[[憲政会]]との合同に反対し、再び立憲政友会に復帰した。1929年3月に第26代衆議院議長に選出されたが、同年5月に現職で死去した。