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| Occupation = [[シンガーソングライター]]
| Years_active = [[1970年]] - 現在
| Label = New Door Records
| Production =
| Associated_acts = [[キッス|KISS]]
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| Notable_instruments =
}}
'''ポール・スタンレー(Paul Stanley)'''の芸名で知られる'''スタンレー・ハーヴェイ・アイゼン'''(Stanley Harvey Eisen、[[1952年]][[1月20日]]-)は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ロック (音楽)|ロック]][[音楽家|ミュージシャン]]、[[ギタリスト]]、[[歌手|シンガー]]、[[作曲家]]、[[画家]]。<br>
 
ロックバンド'''[[キッス]]'''の創設メンバーでグループの中心人物である。[[リズムギター]]と[[ボーカル]]を担当し、グループのヒット曲の多くを作詞・作曲している。
 
 
== 経歴 ==
[[1952年]]1月20日、[[マンハッタン]]の[[ユダヤ人|ユダヤ系]]の家庭に生まれ、8歳のときに[[クイーンズ]]に移り住んだ。<br>幼い頃よりロックに夢中になる。
 
ニューヨークのハイスクール・オブ・ミュージック&アートを[[1970年]]に卒業。<br>
最初にバンドを始めた小学生時代から Uncle Joe、Post War Baby Boom、Tree などいくつかのローカルバンドで活動したのち、1970年ており旧知の[[ジあまり真剣とは言えないレコディ・シモンズ (ミュグを2回経験している。コジシャン)|ジドを弾くのが好きで早くから作曲を始め、歌いながらギタン・シモンを弾くため最初からリ]]のバンド'''ウィキッド・レスムギター'''([[:en:Wicked Lester|en:Wicked Lester]])を志向しており、リードギタリスト加入なりたいと考えた事は1度も無かった<br>
 
[[1972年]]にアルバム1枚を作成したが、レコード契約は得られず'''ウィキッド・レスター'''は維持が困難になり崩壊。ジーンと二人で新しいバンドを作ろうとする。<br>
[[1970年]]、商業デザイナーになるため通っていた、ニューヨークのハイスクール・オブ・ミュージック&アートを卒業。アートカレッジに進むも美術に興味を失っていたため1週間で自主退学し、同年、旧知の[[ジーン・シモンズ (ミュージシャン)|ジーン・シモンズ]]のバンド'''ウィキッド・レスター'''([[:en:Wicked Lester|en:Wicked Lester]])に加入。
[[ピーター・クリス]]、[[エース・フレーリー]]を加えて[[1973年]]にキッスを結成、[[1974年]]2月にファーストアルバム'''KISS'''を発表。<br>
 
キッスでは白地に右目の周りだけ大きな黒い星をあしらい、真紅の唇が印象的なペイントを施して、'''The Starchild'''なるキャラクターに扮する。<br>
[[1972年]]アルバム1枚作成したがするも、レコード契約は得られず'''ウィキッド・レスター'''は維持が困難になり崩壊。ジーンと2人で新しいバンドを作ろうとする。<br>
ステージではフロントマンとしてリードヴォーカル、バックヴォーカル、ギター、ほとんどのMCを担当し、今日までバンドの看板として活躍している。<br>
 
(キッスでの活動については[[キッス]]の項も参照)
[[1973年]]1月、[[ジーン・シモンズ]]、[[ピーター・クリス]]、[[エース・フレーリー]]と共にキッスを結成。21歳になってすぐの1月30日にキッスとして初のライブを行う。
昼間はタクシー運転手やサンドウィッチ店のバイト、夜はバンドで練習やライブという生活を続け、ライブ中に過労で倒れたこともあるが、キッスが正式にマネージメント契約を得てからは仕事を辞めてバンドに専念した。
 
[[1974年]]2月、ファーストアルバム'''KISS'''を発表。
 
キッスでは白地に右目の周りだけ大きな黒い星をあしらい、真紅の唇が印象的なペイントを施して、'''The Starchild'''なるキャラクターに扮する。<br>
ステージではフロントマンとしてリードヴォーカル、バックヴォーカル、ギター、ほとんどのMCを担当し、今日までバンドの看板として活躍している。<br>
 
以降キッスでの活動については[[キッス]]の項参照)
 
 
==ソロ活動==
[[1974年]]にデビューして以来、36年というその長いキャリアのほとんどをキッスでの活動に充て、それ以外での主だった活動は非常に少ないが、時に興味を持ったバンドのプロデュースをしたり、共同作曲者関連のアルバムに曲を提供したりしている<br />
<br>
[[1989年]]に[[ボブ・キューリック]]、[[エリック・シンガー]]らを帯同して初のソロ・ツアーを敢行。<br>
同年、[[ウェス・クレイヴン]]監督のホラー映画「[[ショッカー (映画)|ショッカー]]」のサウンドトラックに収められたタイトルトラックに'''The Dudes Of Wrath'''と名付けられたオールスター・バンドの一員として参加。<br>
長年の共同作曲者デズモンド・チャイルドと共にリードヴォーカルを担当した。<br>
 
[[1979年]]、ニューイングランド[[New England]]というバンドのアルバム'''「NEW ENGLAND」'''のプロデューサーを務めた。
[[1999年]]にはミュージカル「[[オペラ座の怪人]]」([[トロント]]版)にファントム役で出演。
 
[[1989年]]に[[ボブ・キューリック]]、[[エリック・シンガー]]らを帯同して初のソロ・ツアーを敢行。<br>この時の縁が元で、後にキッスのドラマー[[エリック・カー]]が亡くなった時、後任にシンガーが加入した。
[[2006年]]10月には、[[1978年]]に初のソロアルバムを4人のメンバー同時に発表して以来の2作目となる'''「リヴ・トゥ・ウィン」'''(''Live To Win'') をリリースし、ソロ・ツアーも行った。
 
同年、[[ウェス・クレイヴン]]監督のホラー映画「[[ショッカー (映画)|ショッカー]]」のサウンドトラックに収められたタイトルトラックに'''The Dudes Of Wrath'''と名付けられたオールスター・バンドの一員として参加。<br>
長年の共同作曲者[[デズモンド・チャイルド]]と共にリードヴォーカルを担当した。<br>
 
[[1999年]]、5月31日~8月1日と9月28日~10月31日の期間、ミュージカル「[[オペラ座の怪人]]」([[トロント]]版)にファントム役で出演。ロンドンで初めて公演を見て以来どうしても演じてみたいと切望していた役であり、オーディションを受けてキャストに選ばれた。
 
[[2006年]]10月、ソロアルバム'''「リヴ・トゥ・ウィン」'''(''Live To Win'') をリリース。[[1978年]]にキッスの4人のメンバーが同時に発表したソロアルバム以来2作目のソロ作品であり、これに合わせて北米とオーストラリアではソロ・ツアーが行われた。
また、その様子を収録したライブDVD'''「One Live Kiss」'''はテリーアワード Telly Awardを受賞した。
 
[[2008年]]には、[[サラ・ブライトマン]]のアルバム'''「神々のシンフォニー」''' ''I WILL BE WITH YOU'' で彼女とデュエットしている。
 
 
==画家としての活動==
元々ハイスクールで美術を勉強していたポールだが、2001年に離婚するまで正式に絵筆を握る事はなかった。離婚による精神的苦痛に悩んでいた時、セラピーの一環として絵を描く事を友人に薦められたのが再び描き始めるようになったきっかけである。彼の描く絵は感性を重視した非常にカラフルな抽象画が多い。
 
[[2005年]]4月6日、ハワイで自ら創作した絵画による初の個展を開いた。その後も定期的に個展を開いており、現在ではかなりの商業的成功を収めている(2010年度は300万ドルを売り上げた)。
 
 
==私生活==
アメリカ生まれのポーランド系で家具販売をしていたウィリアムを父に、ドイツベルリン生まれのエヴァを母に持ち、裕福ではないがクラシックやオペラが流れる家庭で育った。2歳上の姉がいる。
 
現在はビバリーヒルズ高台の、ジーン宅にも程近いトスカーナ風邸宅に家族と暮らす。
本来私生活を公表することを好まないが、最近はしばしば家族と一緒の映像で子煩悩ぶりを公開している。
 
[[1992年]]に女優パメラ・ボウエンと結婚し、息子エヴァン・シェーン・スタンレー([[1994年]][[6月]]誕生)をもうけたが[[2001年]]に離婚。エヴァンを引き取って育てる。
 
[[2005年]][[11月]]に弁護士エリン・サットンと再婚。[[2006年]][[9月]]に、エリンとの間の最初の子供コリン・マイケル・スタンレーが誕生、[[2009年]][[1月]]には長女サラ・ブリアナが誕生している。また、[[2011年]][[8月]]に次女が誕生することを発表した
 
 
==その他==
彼は生まれつきレベル3の[[小耳症]]であり Microtiaを伴って生まれ、数度にわたる外耳形成手術を受けている。生来、右耳は全く聴こえない。
 
1999年から異なった容姿を持つ人の為のボランティア団体'''AboutFace'''の大使スポークスマンを務めている。2005年には画家としてもデビューした
 
[[2004年]]に2度の人工股関節置換手術を受けている。1度目は2004年10月 Rock the Nation ツアー後に行われ2度目は2004年12月に最初の手術による合併症によるも<br>手術以前は大変な痛みをこらえながらツアーを続けていた。
左股関節の変形は長年のステージアクションによる可能性があり、将来的に3度目の手術が必要になると予想されている。
 
二度の人工股関節置換手術を受けている。一度目は2004年10月 Rock the Nation ツアー後、二度目は2004年12月に最初の手術による合併症の為。<br>
彼は将来的に三度目の手術が必要になるだろうと発表した。また、左股関節の変形は長年のステージアクションによるものだろうと考えている。
 
== ディスコグラフィー ==
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*LIVE TO WIN(2006年)
*ONE LIVE KISS (2008年)-DVD
 
 
== 舞台 ==
*『[[オペラ座の怪人]]』''The Phantom Of The Opera''(1999年トロント公演)(主演)
 
 
== 外部リンク ==