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Hesolla (会話 | 投稿記録)
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上井秀秋の次男として生まれた大剛の者で、[[島津義弘]]の家臣として[[日向国]][[小林市|小林]][[地頭]]となり、[[朝鮮の役]]にも義弘の供をして小林衆20名を伴い渡海した。
 
慶長4年(1599年)に[[伊集院忠真]]が「[[庄内の乱]]」を起こすと、兼政もその鎮圧の為に出陣、小松ヶ尾での戦いの際に[[平田増宗]]が野々美谷方面へ退く中、主従6人と取って帰して敵を防いだ。兼政は傷を負いながらも、忠真の臣である松永五左衛門が兼政の姿に臆して鉄砲を持ったまま行き過ぎる程に奮戦してみせたが、遂に力尽き[[谷口伊予]]に討たれた(その後に起こった奇異は後述)。
 
兼政は幼少時、飯野([[宮崎県]][[えびの市]])の[[長善寺 (えびの市)|長善寺]]で教育を受けており、死後は小林郷内で長善寺の鐘の音が聞こえる場所へ葬ってほしいと遺言していた為、飯野との境の地(現・[[小林市]]南西方平木場)へ葬られた。[[法号]]は「雄岳宗英居士」。その墓は「'''仲五塚'''」として現存する。尚、兼政の子孫は、嫡子・兼安の代から先祖の姓である「諏訪」を称した。
 
==奇異==