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{{Otheruses|ローマ帝国末期のキリスト教神学者}}
[[Image:Domenico Ghirlandaio - St Jerome in his study.jpg|thumb|right|ヒエロニムス(画:[[ドメニコ・ギルランダイオ]])]]
'''エウセビウス・ソポロニウス・ヒエローニュムス'''(Eusebius Sophronius Hieronymus, [[340年]]頃 - [[420年]][[9月30日]])は、[[キリスト教]]の聖職者・[[神学]]者。[[聖書]]のラテン語訳である[[ヴルガータ|ウルガータ]]訳の翻訳者として知られる。四大[[ラテン教父]]のひとりであり、[[正教会]]・[[非カルケドン派]]・[[カトリック教会]]・[[聖公会]]・[[ルーテル教会]]で[[聖人]]とされる(カトリックでは[[教会博士]])。[[日本ハリストス正教会]]での呼称は'''[[克肖者]]イエロニム'''である。
 
== 生涯と業績 ==
ヒエロニムスは[[ダルマティア]]で生まれた。両親はキリスト教徒だったが、彼自身キリスト教に興味がなく、[[ローマ帝国|ローマ]]に留学したのも[[修辞学]]と哲学の勉強のためであった。[[ギリシア語]]を習得し、[[ガリア]]や[[アナトリア半島]]をめぐって古典の研究に没頭したが、373年ごろ[[アンティオキア]]で重病にかかり、神学の研究に生涯をささげることを決意、[[歴史的シリア|シリア]]の砂漠で隠遁生活を送って[[ヘブライ語]]を学んだ。
 
378年に[[叙階]]されたあとは[[コンスタンティノポリス]]で[[ナジアンゾスのグレゴリオス]]と知り合い、さらにローマへって[[教皇|ローマ教皇]][[ダマスス1世 (ローマ教皇)|ダマスス1世]]に重用されるようになる。ローマ滞在中にラテン語訳聖書の決定版を生み出すべく、全聖書の翻訳事業にとりかかった。彼はギリシャ語新約聖書と[[七十人訳聖書]](セプトゥアギンタ)を底本とし、ヘブライ語聖書も参照していた。
 
ダマスス1世が世を去ると、庇護を失ったヒエロニムスはローマを去って聖地[[エルサレム]]へ向かった。[[ベツレヘム]]、エルサレムだけでなくエジプトへも赴いて、自らの神学研究の幅を広げた。ヒエロニムスはベツレヘムに落ち着くと、著述のかたわら聖書の翻訳を続け、405年ごろ完成させた。この聖書こそが中世から20世紀の[[第2バチカン公会議]]にいたるまでカトリックのスタンダードであり続けた「ウルガータ」訳聖書であった。ウルガータ(Vulgata)は[[ラテン語]]で「公布されたもの」という意味である。420年にベツレヘムで没するまでに、多くの神学的著作、書簡を残した。
ヒエロニムスはベツレヘムに落ち着くと、著述のかたわら聖書の翻訳を続け、405年ごろ完成させた。この聖書こそが中世から20世紀の[[第2バチカン公会議]]にいたるまでカトリックのスタンダードでありつづけた「ウルガータ」訳聖書であった。ウルガータ(Vulgata)はラテン語で「公布されたもの」という意味である。420年にベツレヘムでなくなるまでに、多くの神学的著作、書簡を残した。
 
ギリシア語、ヘブライ語をはじめ諸言語に通じ、豊かな古典知識を備えたヒエロニムスは神学の水準向上と聖書研究の歴史に大きな足跡をしるしている。
 
[[ゴート族]]の侵入によってローマが占領される同時期の人物でもあり、このことについて嘆く手紙を残している。
 
== 出典・参考文献 ==