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永禄11年([[1568年]])から[[織田信長]]が伊勢に侵攻し、[[神戸氏]]・長野工藤氏など伊勢北中部の豪族を支配下に置いた。上洛を目論む信長は、北畠氏がその障害になると考え、永禄12年([[1569年]])、侵攻を開始した。北畠軍は織田軍相手に奮戦したが、兵数に大きな差があり、具教の弟・木造具政が信長に寝返るなどの悪条件も重なり、次々と城を落とされた。具教は大河内城([[松阪市]])に籠城して死守するも、50余日に及ぶ抵抗の末、遂に信長に降伏した。このとき、具教は降伏の条件として信長の次男・[[織田信雄]]を長男の北畠具房の養嗣子として迎え入れることとなる。具房にはまだ子がなかったため、具教の娘の雪姫が信雄に嫁ぐこととなった。
 
その後は[[元亀]]元年([[1570年]])5月に出家して天覚<ref name="北畠氏の研究">『北畠氏の研究』 大西源一著 に記述</ref>、更に不智斎と号し、三瀬谷([[多気郡]][[大台町]])に隠居したが、天正4年(1576年)11月25日、信長と信雄の命を受けた旧臣([[長野左京亮]]、[[加留左京進]]([[藤方朝成|藤方刑部小輔]]の名代)ら)たちの襲撃を受けて、子の徳松丸亀松丸、および家臣の大橋長時松田之信上杉頼義ら(名が判明しているだけで14名の武士)共々殺害されてしまった。享年49。同時に[[長野具藤]]はじめ北畠一門の主な者が織田信雄の居城・[[田丸城]]において殺害され、これにより[[戦国大名]]としての北畠氏は完全に織田氏に乗っ取られてしまうこととなる。
 
尚、なお具教の首級は加留左京進の家臣である[[伊東重内]]らにより運び出されたが、変に気付き駆け付けた[[芝山秀時]]、[[大宮吉守|大宮多気丸]]らに奪い返され、秀時の父である[[芝山秀定]]により御所尾山に埋葬された<ref name="北畠氏の研究"/>。
 
== 人物・逸話 ==
* 具教は[[剣術]]を好み、修行の旅をする剣客を保護援助していた。自身も[[塚原卜伝]]に剣を学び、奥義である一の太刀を伝授されたと言われる剣豪である。また、具教の元を訪れた[[上泉信綱]]からも剣を学んだ。具教は、領土が隣接する[[柳生宗厳]]とは剣を通じて親交があり、上泉信綱に彼や宝蔵院[[胤栄]]を紹介するなど、剣豪たちの交流に一役買っていたと言われる。織田氏の刺客に襲撃された際も、太刀を手に19人の敵兵を斬り殺し100人に手傷を負わせたという凄腕を見せている<ref>『[[寛永諸家系図伝]]』の記述。</ref>(刀の刃が腹心の佐々木四郎左衛門尉により潰されており、抵抗できずに斬殺されたとも<ref name="勢州軍記"/>)。
* [[信長包囲網]]が敷かれた際には[[足利義昭]]と通じて密かに旧臣を動かすなどして信長に抵抗したといわれる。このため、信長に処断されることとなった。
* 暗殺された20年後、上三瀬の住人が具教の菩提を弔うために現在の大台町にある北畠神社の場所に国司堂を建てたとされる<ref>[http://www.odaitown.jp/kankou/eventspot.html 大台町公式HP大台町のイベント・スポット]</ref>。
 
== 脚注 ==
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<div class="references-small"><references/></div>
 
== 外部リンク ==