「畠山秋高」の版間の差分

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[[永禄]]11年([[1568年]])に足利義昭が[[織田信長]]と共に[[尾張国|尾張]]から上洛してくると、河内の高政もこれを支持する。高政は幕府を再興した義昭と信長に河内半国守護を認められた。しかし翌年、兄が重臣の[[遊佐信教]]によって紀伊に追放されると、新当主として擁立される。
 
元亀2年([[1571年]])には、河内の上半国の守護に任じられていた[[三好義継]]が反乱を起こし[[松永久秀]]と共に河内の畠山方の諸城を攻撃すると、宗房と共にこれに抵抗する。しかし遊佐信教が三好氏と同調する気配を見せたため昭高は信長の妹を妻とし、織田氏の援軍を得て信教を倒そうとしたが、元亀43(1573([[1572]]閏1月4日は、信教に逆襲されてよる昭高暗され未遂が発生した([[高屋城の戦い多聞院日記]]。しかし、天正元年([[1573年]])、足利義昭と信長の対立が激化すると義昭方に付いたため(『顕如上人御書札案留』)、信長の後ろ盾を失い信教に殺された。信教は昭高の死後復帰を図った高政を退けるも、昭高の義兄である信長によって滅ぼされた([[高屋城の戦い]])
 
その後河内は信長の家臣である[[佐久間信盛]]の統治下におかれ、畠山氏の旧臣の多くも信盛の指揮下におさまり、紀伊において命脈を保つのみとなる。しかし畠山氏の家督は甥の[[畠山貞政]]に継承され、江戸時代にも[[高家 (江戸時代)|高家]]として存続した。