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[[永禄]]11年([[1568年]])に足利義昭が[[織田信長]]と共に[[尾張国|尾張]]から上洛してくると、河内の高政もこれを支持する。高政は幕府を再興した義昭と信長に河内半国守護を認められた。しかし翌年、兄が重臣の[[遊佐信教]]によって紀伊に追放されると、新当主として擁立される。
元亀2年([[1571年]])には、河内の上半国の守護に任じられていた[[三好義継]]が反乱を起こし[[松永久秀]]と共に河内の畠山方の諸城を攻撃すると、宗房と共にこれに抵抗する。しかし遊佐信教が三好氏と同調する気配を見せたため、昭高は信長の妹を妻とし、織田氏の援軍を得て信教を倒そうとした
その後河内は信長の家臣である[[佐久間信盛]]の統治下におかれ、畠山氏の旧臣の多くも信盛の指揮下におさまり、紀伊において命脈を保つのみとなる。しかし畠山氏の家督は甥の[[畠山貞政]]に継承され、江戸時代にも[[高家 (江戸時代)|高家]]として存続した。
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