「第二次世界大戦時のギリシャ」の版間の差分

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|style="font-size: 90%;" align=center| 1944年10月
|style="font-size: 90%;"| ドイツ軍、バルカン半島より撤退開始。11月4日までに終了<br/>パパンドレウ、帰国<br/>イギリス・ソビエト連邦間で『[[パーセンテージ協定]]』合意
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|style="font-size: 90%;" align=center| 1944年12月
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Group, p.19, ISBN 0275965449</ref>
 
1943年5月、ブルガリア占領区域からのユダヤ人追放が始まった。1943年、ギリシャからイタリア軍が撤退した後、ドイツの管理の元、マケドニア中部にブルガリア軍が駐屯した。<ref>[http://www.balkanalysis.com/2005/11/29/the-holocaust-in-greece-1941-1944-part-1/ Carl Savich, Balkanalysis article]</ref> しかし、1944年10月、[[赤軍|ソビエト赤軍]]がブルガリア方面へ進撃し、また、ドイツ軍がギリシャより撤退、イギリス首相ウィンストン・チャーチルとソビエト連邦書記長[[ヨシフ・スターリン]]との間で取り交わされた『(勢力範囲における)[[パーセンテージ協定]]<ref name="R133">[[#クロッグ|リチャード・クロッグ、(2004)p.133]].</ref> 』により、ブルガリア軍はマケドニア、トラキアから撤退することを強制された。そして、戦後のブルガリア占領地区の回復の困難を残してギリシャは再出発することとなった。
 
===傀儡と協力===
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1943年10月、EDESがドイツ軍と通じているとしてELASは攻撃を開始したが、これはイギリスが占領以前の国王による統治を復活させ、EDESを足がかりに利用していると判断、ユーゴスラビアやアルバニアのように国内唯一のレジスタンスとしての存在を確実にして、戦後のギリシャでの地位を確実にしようとしたものであったが<ref name="R131"/><ref name="G337"/>、イギリス軍はELASへの補給を中止、EDESの消極的支援を行った<ref name="R132">[[#クロッグ|リチャード・クロッグ、(2004)p.132]].</ref>。しかし、これは限定的なものにしかならず、1943年9月、ギリシャ=イタリア間で停戦が合意されイタリア将兵数千名が降伏すると、ELASはイタリア軍の装備を手中に収め、戦力を増強していた<ref name="R132"/>。しかし、この内戦状態はドイツ占領当局を利することとなり、ドイツ傀儡政府は共産主義への恐怖を抱いている人々を集め『防衛軍』の編成を行った。これらを重く見たゲリラたちは1944年2月、休戦条約を結んだが、EDESの勢力はイピルス地方に限定された<ref name="R132"/>。
 
これらの条件が存在していたにも関わらずEAMは政治的目的を捨てたわけではなかった。すでに支持を失いつつあったエジプトの『亡命政府』に対抗し、なおかつ、ギリシャ山岳部における政府の役割を果たす目的で『国民解放政策委員会』が結成されていたが、これを統一政府とすることを主眼にエジプトに駐留していたギリシャ軍部隊内のEAMシンパは反乱を企てた。しかし、イギリス軍はこれを鎮圧、この反乱を見たチャーチルは、ソ連の赤軍がバルカン諸国に向けて進撃していたことと合わせて、戦後のギリシャが共産主義者によって牛耳られることを深く懸念せざるを得なかった。そこでチャーチルはバルカン半島における各国の権利の調整を図る[[パーセンテージ協定|『パーセンテージ』協定]]をモスクワで締結した<ref name="R132"/>。
 
 
{| class="toccolours" style="float: right; marginright: 1em; margin-right: 2em; font-size: 85%; background:#c6dbf7; width:30em; max-width: 40%;" cellspacing="5"
| style="text-align: right;" {{Quotation|バルカン諸国における我々の問題に答えを出しましょう。・・・(中略)・・・イギリスとロシアにおいて、貴殿はルーマニアの90%を支配、我々はギリシャを90%支配する。そしてユーゴスラビアは半々でどうでしょうか。|イギリス首相[[ウィンストン・チャーチル]]からヨシフ・スターリンへの書簡|、1944年10月<ref name="R133"/>}}
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| style="text-align: left;" |イギリス首相[[ウィンストン・チャーチル]]からヨシフ・スターリンへの書簡、1944年10月<ref name="R133"/>
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しかし、この事は現地で抵抗を行っていたゲリラたちは知る由もなかった<ref name="R133"/>。