「小栗忠順」の版間の差分

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文久3年([[1863年]])12月8日、造船所建設案を幕府に提出。幕閣などから多くの反発をうけたが、[[徳川家茂]]はこれを承認し、<!--小栗はそれまでの手腕によって[[徳川慶喜]]の絶大なる信頼をうけており、反対派は沈黙。-->11月26日に実地検分が始まり建設予定地は横須賀に決定された。費用は4年継続で総額240万ドル<ref>高村 34-35頁、</ref>。これが[[徳川埋蔵金]]説につながったとも言われている。建設に多くの鉄を使用するにあたって、[[上野国]][[甘楽郡]]中小坂村(現在の群馬県甘楽郡[[下仁田町]]中小坂)で[[中小坂鉄山|鉱山]]採掘施設との建設ラインを引く。これにより建設日数が短縮された。
 
[[慶応]]元年([[1865年]])11月15日、「[[横須賀造船所|横須賀製鉄所]]」(後の[[横須賀海軍工廠]])の建設開始<ref>1871年に全ての施設が完成。なお江戸開城直前には、第一船渠は完成し、第一、第二船台の工事進捗率はそれぞれ8割、6割であり、一部完成した施設では40馬力の小汽船が製造されていた。武田 119頁</ref>。規模と建設費用を考えると当時のアジア最大の[[海軍工廠]]建設計画であり、その費用は、万延[[二分金]]などの貨幣の増鋳による[[シニョリッジ|貨幣発行益]] により賄った<ref>瀧澤ほか 258頁</ref><ref>田辺、幕末外交談2 237-238頁</ref>。そして当時28歳の[[レオンス・ヴェルニー|フランソワ・レオンス・ヴェルニー]]を首長に任命。幕府公認の事業では初の外国人責任者だった。これにより職務分掌・[[就業規則|雇用規則]]・[[残業手当]]・[[OJT|社内教育]]・[[簿記|洋式簿記]]、[[月給]]制など[[経営学|近代経営]]や[[人事労務管理]]の基礎が日本に導入された<ref>平間 軍事史学176号 48-51頁</ref>。また製鉄所の建設をきっかけに[[横浜仏語伝習所|横浜仏蘭西語伝習所]]という日本初のフランス語学校を設立。ロッシュの助力もあり、フランス人講師を招いて本格的な授業を行った<ref>坂本 347-372頁</ref>。卒業生には明治政府に貢献した人物が多い<ref>山本 95頁、及び横須賀製鉄所の人びと 参照</ref>。
 
小栗は海軍だけではなく、陸軍の力を増すために、外国からの輸入に頼っていた[[小銃]]・[[大砲]]・弾薬等の兵器・装備品の国産化を推進したが、特に[[四斤山砲]]・[[ミニエー銃|スプリングフィールド銃]]が主たる対象であった。[[文久]]2年([[1862年]])12月、銃砲製造の責任者に任ぜられると、それまで[[江川英武]]に運営を任されていた[[関口製造所]]を幕府直轄の事業とし、組織改革を行い、組織の合理化、当時多発していた製造不良の低減に着手した<ref>大松 69-79頁</ref>。また[[ベルギー]]より弾薬用[[火薬]]製造機械を購入し、[[滝野川反射炉]]の一角に設置することとし、日本初の西洋式火薬工場を建設した<ref>武田 127-129頁</ref>。そして更なる軍事力強化のため、幕府陸軍をフランス軍人に指導させることを計画した。慶応2年12月8日(1867年1月12日)に[[フランス軍事顧問団 (1867-1868)|フランス軍事顧問団]]が到着、翌日から訓練が開始された。