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'''橋本 一巴'''(はしもと いっぱ、生没年不詳)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将・炮術家。[[織田信長]]の[[火縄銃]]の師匠。[[片原一色城]]主橋本氏五代道求の別名ともいわれる。
== 生涯 ==
『[[信長公記]]』によると、信長は16、7、8歳のころ、弓を市川大介、鉄砲を橋本一巴、兵法を平田三位に付いて稽古した<ref>[[太田牛一]] 『[[信長公記]]』 巻首 「上総介殿形儀の事」</ref>。この情報は、尾張の味鏡村の天永寺に住む[[天台宗]]の僧天沢が甲斐を訪れた際、彼を通じて[[武田信玄]]にも伝えられている<ref>太田牛一 『信長公記』 巻首 「天沢長老物かなりの事」</ref>。[[永禄]]元年([[1558年]])の[[浮野の戦い]]では、一巴は弓の達人[[林弥七郎]]と二つ玉<ref>2発の弾丸を込めること。[[後北条氏]]では、2発の弾丸を紙で包み1発にした弾丸のことも作られた。([[宇田川武久]]『鉄砲と戦国合戦』、吉川弘文館、2007、 ISBN 978-4-642-05546-08 、175ページ
)。</ref>を用いて鉄砲対弓矢の戦いを演じ、これを討ち取った<ref>太田牛一 『信長公記』 巻首 「浮野合戦の事」</ref>。
 
同時代の史料ではないが、[[寛永]]10年([[1633年]])に記された『国友鉄炮記』によれば、一巴は[[天文 (元号)|天文]]18年([[1549年]])に鉄砲撃ちとして世上に名高いことが信長の耳に達して召抱えられ、同年7月18日に、信長の命で[[国友]]村の鉄砲鍛冶[[国友善兵衛]]らに六匁玉鉄砲五百500挺を注文したという。
 
史料に現れる橋本一巴は以上に過ぎないが、[[山本兼一]]は一巴を主人公とした小説『雷神の筒』を著し、多くの戦いでの活躍や信長との対立を描いている。
 
また[[織田信雄]]の家臣に橋本伊賀という人物が記録にあり、信長の死後も砲術をもって信雄の下で活躍した。年代や砲術の技量を持つことからして、一巴の子息であると考えられる<ref>『鉄砲と戦国合戦』148-149ページ</ref>。
== 脚注 ==
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[[Category:戦国武将]]
[[Category:火縄銃]]
[[Category:砲術]]