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'''渡辺 了'''('''わたなべ さとる'''、[[永禄]]5年([[1562年]]) - [[寛永]]17年[[7月24日 (旧暦)|7月24日]]([[1640年]][[9月9日]]))は[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武]]である。通称は勘兵衛(かんべえ)で、'''渡辺勘兵衛'''の名で有名。名は初め「吉光」と伝わる。[[近江国]][[浅井郡]]の土豪、[[渡辺右京]]の子として生まれ、同族の[[渡辺任]]の養子となったようである。子に[[渡辺宗]]。睡庵(水庵)。
 
==経歴==
初め[[浅井氏]]麾下の[[阿閉貞征]]家臣。貞征の娘を妻としてもらい受けているのちに「'''槍の勘兵衛'''」と称されるように槍の名手であり、[[摂津国]][[吹田城]]攻めで一番首を挙げ、[[織田信長]]から直接称賛されたほどで、阿閉家の精鋭であった母衣衆の一人であったが、後に辞して[[天正]]10年([[1582年]])ごろより[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に仕え、2,000石の扶持をもって、秀吉の養子である[[羽柴秀勝]]付きとなった。[[山崎の戦い]]や[[賤ヶ岳の戦い]]でも活躍し、[[石田三成]]家臣の[[杉江勘兵衛]]、[[田中吉政]]家臣の[[辻重勝|辻勘兵衛]]と並んで「三勘兵衛」と評されたものの、天正13年([[1585年]])に秀勝が没してしまうと、それに伴い浪人する。
 
次に[[中村一氏]]に3,000石で仕える。[[小田原の役]]において中村勢の先鋒として働き、伊豆山中城攻めにおいて一番乗りを果たす。秀吉から「捨てても1万石は取るべき」と賞賛されるが、一氏からの恩賞(倍の6,000石)に不満を持ち、再び浪人する。続けて[[増田長盛]]に4,000石で仕える。[[関ヶ原の戦い]]で西軍についた長盛の出陣中に、居城の[[郡山城 (大和国)|郡山城]]を任された。戦後、既に長盛が所領を没収されて[[高野山]]に蟄居していたにも関わらず、「主君長盛からの命で城を守っている。それ以外の命によって開城はできない」と、城接収の[[藤堂高虎]]、[[本多正純]]らにあくまで抵抗した。
 
[[徳川家康|家康]]らによって、長盛に書状を書かせるまで城を守り通した後に、無事に開城もすませ、その忠義と力量に仕官の誘いが相次いだが、同郷でもあった藤堂高虎に2万石の破格の待遇で仕えることとなる。新たに高虎の居城となった[[伊予国]]の[[今治城]]の普請奉行を務めるなど、槍働き以外の才能を見せ、その後藤堂家が[[伊勢国]]に移封となると、[[上野城]]代にまでなった。
 
[[大坂の役]]では藤堂勢の先鋒を務めるが、冬の陣にて、戦い方で主君高虎と衝突。谷町口の攻防戦において[[長宗我部盛親]]の部隊に蹴散らされて、落馬して負傷するなど大敗してしまう。夏の陣の八尾の戦いにおいては名誉挽回とばかりに再び長宗我部盛親・[[増田盛次]]の部隊に襲い掛かり300余人を討ち取る活躍をした。しかし、この活躍も独断専行甚だしく、7回にも及ぶ撤退命令を無視して追撃して得たもので、戦いには勝ったものの損害もまた大きく、高虎や他の重臣たちから疎まれる原因となった。そのため戦後出奔して再び浪人となってしまう。
 
再び仕官の道を探すものの、藤堂家から[[奉公構]]の触れ(仕官を他の家にさせないようにする願い)が出ており、幕府などからも誘われるものの、適うことはなかった。高虎は「奉公したければ(姻戚関係のある)会津の[[蒲生氏|蒲生家]]か讃岐の[[生駒氏|生駒家]]に仕えよ」と命じたものの、これを彼は承知しなかった。寛永5年([[1628年]])には[[天海]]を仲裁役にして奉公構の解除を願ったが、藤堂家から出された一方的な和解の条件に承知せず、逆に高虎への不平不満を申し立てたため、交渉は決裂した。
 
高虎の死後も、子の[[藤堂高次]]が引き続き奉公構の方針を維持したため仕官はかなわず、その才を惜しんだ[[細川忠興]]や[[徳川義直]]らの捨扶持を細々と受けながら、「睡庵」と称した。京で没したという。