「他戸親王」の版間の差分

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生年については『[[水鏡]]』・『[[一代要記]]』の年齢記事によれば天平宝字5年となるが、この場合母親の井上内親王が45歳の時の子となってしまい年齢が不自然であるとして、正しい生年を[[天平勝宝]]3年([[751年]])とする歴史学者が多い。だが、[[称徳天皇]]亡き後に最も皇位に近い立場にいた筈の他戸親王の『[[続日本紀]]』における初出が、父・光仁天皇の即位後であること(つまり称徳朝における叙任記録が存在しない)や姉の酒人内親王も井上内親王が37歳の時の子であることを考えた場合、当時でも稀な高齢出産があった可能性も排除出来ない。このため、本項では天平宝字5年説で解説する。
 
親王の父・白壁王は[[天智天皇]]の孫である。だが、既に皇位が[[天武天皇]]系に移されて久しく、王自身も皇族の長老ゆえに大納言の皇位に列しているだけの凡庸な人物と見られていた。だが、称徳天皇の時代、天武系皇族は[[皇位継承]]を巡る内紛から殆どが粛清されており、めぼしい人物がいなかった。このような状況下で政府首班であった[[左大臣]][[藤原永手]]([[藤原北家]])が目に付けたのが他戸王(当時は親王ではない)であった。天智天皇の曾孫で母親も聖武天皇(天武天皇の嫡流)の内親王である他戸王を[[皇位継承]]の隠し玉として保護したのである。
 
やがて称徳天皇が死ぬと永手は他戸王の父である白壁王を皇位継承者として擁立する。その際、[[藤原氏]]は反対派に対する切り札として利用したのが他戸王であった。つまり、女系とはいえ天武天皇の血を引く最後の皇族である他戸王を皇位につかせるための中継ぎとして父親の白壁王に一時皇位を継承させるという[[大義名分]]を持ち出したのである。かくして宝亀元年([[770年]])に白壁王は即位して光仁天皇となったのである。