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|combatant2=周
|commander1=[[紂王]](帝辛)
|commander2=[[武王 (周)|姫発]](武王)
|strength1=700,000(諸説あり)
|strength2=400,000(諸説あり)
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『[[史記]]』によれば殷末の紂王は凶悪な暴君として知られ、重税を課し、諫めるものを殺し、先祖を祀るのに生贄として多くの人間を殺したために民衆は殷の支配を嫌うようになった。また、殷末期には外征も行われ、諸侯は次第に殷を倒す密議をするようになった。
 
紂王はこれを知って怒り、ある日密議に加わった諸侯らを偽って招き、殺して塩漬けにした。西伯[[西伯昌]]は篤実な性格でこの密議には加わっていなかったが、紂王に疑われて奴隷とされた。さらに紂王は殷の人質となっていた西伯昌の長男[[伯邑考]]を羹(あつもの、スープのこと)にして西伯昌に食べさせた。西伯昌の家臣たちが紂王に莫大な贈物をしたので西伯昌の疑いは晴れて解放されたが、西伯昌はこれを恨んで殷に復讐する決意を固めた。
 
西伯昌は周に戻ったのち、近隣の諸国を併呑して国力を増大させ、さらに殷に恨みをもつ諸侯たちの間に手を回して次第に殷に対抗できるだけの力を持つに至った。しかし、老齢の西伯昌は殷との対決を目前にして亡くなってしまう。
 
西伯昌の後を継いで次男[[姫]](武王)が周の太子として諸侯をまとめ、殷に決戦を挑むことになった。
 
発の率いる軍は殷の虚をついて決起し、諸侯の軍もこれに加わって瞬く間に大軍となった。殷軍は為す術もなく周軍の侵攻を許し、発は殷を容易に滅ぼすかに見えたが「いまだそのときではない」と言って突如として軍を返し、周へと帰国した。
 
この理由は不明とされているが、
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== 牧野の戦い ==
数年後、発はまたしても軍を発して殷を攻めた。この際には様々な瑞兆があったと言われている。周軍は[[孟津]]という港から[[黄河]]を渡ろうとしたが、雷雨と暴風に邪魔されて河を渡ることが出来なかった。発は怒り、河の神に向かって「天命はすでに下ったのだ。どうしてわたしの邪魔をするのか」と大喝すると嵐はやみ、周軍は河を渡ることが出来た。また、河を渡る船の中に白魚が飛び込んできた。白魚は殷のシンボルである。
 
周軍と殷軍は殷の首都・[[朝歌]]に近い牧野というところで決戦することになった。『史記』周[[本紀]]によれば今回は殷の準備も万全で70万という大軍を動員した。対する周軍は諸侯の軍を加えても40万である。決戦の前はまたしても雷雨がとまらなかったが、発は殷の[[湯王]]が[[夏 (三代)|夏]]の[[桀|桀王]]を破って王朝をひらいた[[鳴条の戦い]]においても雷雨がとまらなかったといわれていることから、むしろこれは周が勝って王朝をひらくという前触れであると言って全軍を勇気付けた。
 
殷軍は数の上では遥かに優勢であったが、その数は戦場にて不吉を祓うための[[神官]]を含んでいるうえに、殷に服属している小諸国の軍や、奴隷兵からなりたっていた。彼らも暴虐な紂王の支配に嫌気がさしていたので、戦いの途中で矛先を変えて襲い掛かったので、殷軍は壊滅した。
 
==事後==
周軍は紂王を追って[[朝歌]]まで攻め入った。紂王はもはやこれまでと覚悟を決め、王宮に火を放って死んだ。発は紂王の遺体に三本の矢を放ってから[[まさかり|鉞]]で首を落としたと言う。『[[尚書]]』牧誓によれば、この日の[[干支]]は[[甲子]]であると記され、出土した[[青銅器]]銘文でも確認されている。ここに600年に及んだ殷王朝は倒れ、発は周王朝をひらいた。
 
牧野の戦いは文献によれば大規模な大軍同士の戦闘とされるが、青銅器銘文や[[甲骨文]]においては「大邑商に克つ」と記されたものがあり、戦闘は殷の邑を先制して周が襲撃したものであるとも考えられている。