「牧野の戦い」の版間の差分
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|combatant2=周
|commander1=[[紂王]](帝辛)
|commander2=[[武王
|strength1=700,000(諸説あり)
|strength2=400,000(諸説あり)
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『[[史記]]』によれば殷末の紂王は凶悪な暴君として知られ、重税を課し、諫めるものを殺し、先祖を祀るのに生贄として多くの人間を殺したために民衆は殷の支配を嫌うようになった。また、殷末期には外征も行われ、諸侯は次第に殷を倒す密議をするようになった。
紂王はこれを知って怒り、ある日密議に加わった諸侯らを偽って招き、殺して塩漬けにした。
この理由は不明とされているが、
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== 牧野の戦い ==
数年後、
周軍と殷軍は殷の首都・[[朝歌]]に近い牧野というところで決戦することになった。『史記』周[[本紀]]によれば今回は殷の準備も万全で70万という大軍を動員した。対する周軍は諸侯の軍を加えても40万である。決戦の前はまたしても雷雨がとまらなかったが、
殷軍は数の上では遥かに優勢であったが、その数は戦場にて不吉を祓うための[[神官]]を含んでいるうえに、殷に服属している小諸国の軍や、奴隷兵からなりたっていた。彼らも暴虐な紂王の支配に嫌気がさしていたので、戦いの途中で矛先を変えて襲い掛かったので、殷軍は壊滅した。
==事後==
周軍は紂王を追って[[朝歌]]まで攻め入った。紂王はもはやこれまでと覚悟を決め、王宮に火を放って死んだ。
牧野の戦いは文献によれば大規模な大軍同士の戦闘とされるが、青銅器銘文や[[甲骨文]]においては「大邑商に克つ」と記されたものがあり、戦闘は殷の邑を先制して周が襲撃したものであるとも考えられている。
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