「クレメンス・クラウス」の版間の差分

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== 生涯 ==
母親はウィーン宮廷歌劇場(後の[[ウィーン国立歌劇場]])のソロ・バレリーナで、当時まだ17歳にもならないクレメンティーネ・クラウスであり、私生児だったクラウスは外交官だった祖父の下で育った。クラウスの持つそのエレガントな美貌から、父親は[[ハプスブルク家]]の人間ではないかという噂が絶えず、バルタッツィ侯爵([[ルドルフ (オーストリア皇太子)|ルドルフ皇太子]]と心中した[[マリー・ヴェッツェラ]]の叔父で当時稀代のプレイボーイ)、ヨハン・サルヴァトール大公、あるいは皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]などと言われている。

10歳でウィーン少年合唱団に入団し、その後[[ウィーン国立音楽大学|ウィーン音楽院]]で作曲家[[リヒャルト・ホイベルガー]]に学ぶ。[[リガ]]、[[ニュルンベルク]]、[[シュチェチン|シュテッティン]]、[[グラーツ]]、[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]など各地の歌劇場で研鑽を積んだ後、[[1929年]]に[[フランツ・シャルク]]の後任としてウィーン国立歌劇場の[[音楽監督]]に、また翌年[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]の後任として[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]の常任指揮者に就任する(クラウスが辞任後ウィーン・フィルは常任指揮者制そのものを廃止し、70年を経た現在もなお復活の予定はない)。クラウスはまさにウィーンを掌中に収めたかに見えたが、折りしも1928年に始まった[[世界恐慌]]で演奏会やオペラへの客足が鈍り(ウィーン・フィルの演奏会のチケットなど楽員が内輪で捌かねばならないほどだった)、またクラウスは当時前衛的だった作品をプログラムに盛んに取り上げたため各方面から強い反発を受けた。

[[1934年]]に国立歌劇場を失脚してウィーンを離れた後、[[1935年]]に[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]と衝突して辞任した[[エーリッヒ・クライバー]]の後任として、[[ベルリン国立歌劇場]]の音楽監督に就任する。また[[1937年]]にはナチスによって辞任に追いやられた[[ハンス・クナッパーツブッシュ]]の後任として[[バイエルン国立歌劇場]]の音楽監督に就任する。[[1941年]]からはやはりナチスにより[[ザルツブルク音楽祭]]の総監督に任命されている(これが災いし、戦後は1952年まで音楽祭から締め出されてしまう)。この戦前、戦中のナチスとの協力関係が後に指弾されることになるが、クラウスはフルトヴェングラー同様に最後までナチス党員ではなく、ナチスの下で要職に就く一方、ナチスの手からユダヤ人音楽家を少なからず救ったとも言われている。戦後クラウスは、彼自身のナチスに対する日和見的な態度を強く恥じ、反省したという。

第二次世界大戦終結直前の[[1944年]]、空襲が激しくなったウィーンに戻ってウィーン・フィルと行動を共にする。[[1945年]]、ソ連軍がウィーンを目前に迫った4月2日にウィーン・フィルと戦中最後の演奏会を行う(曲目は[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の「[[ドイツ・レクイエム]]」)。そしてソ連軍によるウィーン占領直後、オーストリア独立宣言の日([[4月27日]])には、解放記念コンサートでウィーン・フィルを指揮する(曲目は[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[レオノーレ序曲第3番|『レオノーレ』序曲第3番]]、[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]の[[交響曲第7番 (シューベルト)|交響曲第7(8)番「未完成」]]、[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]の[[交響曲第5番 (チャイコフスキー)|交響曲第5番]])。その後、ナチスに協力したという容疑で[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]により演奏活動の停止を命ぜられたが、[[1947年]]に非ナチ化裁判において無罪となり、活動を再開した。[[1954年]]に亡くなるまでウィーンを中心にヨーロッパや中南米で活躍した。

戦後の活動で注目に値するのは、[[1952年]]のザルツブルク音楽祭において[[リヒャルト・シュトラウス]]の「[[ダナエの愛]]」の初演を行ったこと(1944年にすでに作曲家自身の前で[[ゲネプロ]]まで行ったが、ナチスの指示により公演中止となった)、および[[1953年]]に[[バイロイト音楽祭]]で[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の楽劇「[[ニーベルングの指環]]」「[[パルジファル]]」を指揮して大成功を収めたことである。バイロイト出演は、[[ヴィーラント・ワーグナー]]が音楽祭再開後に推し進めたいわゆる「新バイロイト様式」に、[[ハンス・クナッパーツブッシュ]]が抗議して出演をキャンセルしたことに伴い実現した(ヴィーラントは翌年以降もクラウスに任せるつもりだったが、クラウスの死により急遽クナッパーツブッシュと和解して呼び戻した)。戦前の華麗な経歴とは対照的に、戦後は特に重要なポストに就くことはなかったが、生粋の劇場人であるクラウスは(母がバレリーナだったため「生まれずして舞台に立っていた」と自らを語った)、1955年に再建予定の[[ウィーン国立歌劇場]]の音楽監督への復職を切望しており、そのためにライヴァルの[[エーリッヒ・クライバー]]に対する妨害工作を行ったといわれている(因みにエーリッヒ・クライバーは後にベルリン国立歌劇場に復帰する)。しかし最終的に時の文部大臣の指示により[[カール・ベーム]]が次期監督に決定し、このショックがクラウスの死を早めたと言われている。決定の直後に失意のクラウスは[[メキシコ]]へ演奏旅行に出かけ、演奏会直後に心臓発作のため急逝した。最後の演奏会の曲目は、[[ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]の[[交響曲第88番 (ハイドン)|交響曲第88番]](クラウスはこの曲を得意としてよく取り上げた)、[[ポール・デュカス|デュカス]]の交響詩「[[魔法使いの弟子]]」、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の[[ピアノ協奏曲第2番 (ブラームス)|ピアノ協奏曲第2番]]、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[レオノーレ序曲第3番|『レオノーレ』序曲第3番]]であった。クラウスはメキシコには行きたくなかったので、わざと主催者側に高額の報酬を要求したが、その要求が受け入れられてしまったため行かざるを得なくなったと言われている。ウィーンの市民はみな悲しんでクラウスのために[[半旗]]を掲げたと伝えられる
 
戦前の華麗な経歴とは対照的に、戦後は特に重要なポストに就くことはなかったが、生粋の劇場人であるクラウスは(母がバレリーナだったため「生まれずして舞台に立っていた」と自らを語った)、1955年に再建予定の[[ウィーン国立歌劇場]]の音楽監督への復職を切望しており、そのためにライヴァルの[[エーリッヒ・クライバー]]に対する妨害工作を行ったといわれている(因みにエーリッヒ・クライバーは後にベルリン国立歌劇場に復帰する)。しかし最終的に時の文部大臣の指示により[[カール・ベーム]]が次期監督に決定し、このショックがクラウスの死を早めたと言われている。決定の直後に失意のクラウスは[[メキシコ]]へ演奏旅行に出かけ、演奏会直後に心臓発作のため急逝した。最後の演奏会の曲目は、[[ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]の[[交響曲第88番 (ハイドン)|交響曲第88番]](クラウスはこの曲を得意としてよく取り上げた)、[[ポール・デュカス|デュカス]]の交響詩「[[魔法使いの弟子]]」、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の[[ピアノ協奏曲第2番 (ブラームス)|ピアノ協奏曲第2番]]、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[レオノーレ序曲第3番|『レオノーレ』序曲第3番]]であった。クラウスはメキシコには行きたくなかったので、わざと主催者側に高額の報酬を要求したが、その要求が受け入れられてしまったため行かざるを得なくなったと言われている。ウィーンの市民はみな悲しんでクラウスのために[[半旗]]を掲げたと伝えられる。
 
==演奏スタイル==
クラウスの演奏スタイルは、細部まで極めて緻密に仕上げられ、かつ速めのしなやかなテンポによる緊張感にあふれたものである。また、その音楽から立ちのぼる匂うような優雅さ、高貴さ、艶やかさはやはりウィーン人ならではというべく、この特質はモーツァルトのオペラや、リヒャルト・シュトラウスの交響詩やオペラ(たとえば「[[ばらの騎士]]」「[[サロメ (オペラ)|サロメ]]」「[[アラベラ (オペラ)|アラベラ]]」など)、[[ヨハン・シュトラウス2世]]のワルツ・ポルカなどにおいて発揮されたといえる。クラウスがウィーンで非常な人気を誇った理由に、彼の典雅な演奏スタイルと貴族的な容姿にあったであろうことは想像に難くない。クラウスの指揮はいわゆる「ウィーン風」の典型として見られることも多いが、たとえば同じウィーンの指揮者[[ヨーゼフ・クリップス]]などのように古典性の枠から出ないものではなく、クナッパーツブッシュやシューリヒトに並ぶ濃厚な個性に裏付けられている。

クラウスの指揮ぶりはリヒャルト・シュトラウスと同様、非常に無駄のない小さい身振りでオーケストラから最大限の能力を引き出すというものだった。クラウスに師事した[[オトマール・スウィトナー]]によれば、当時の指揮者でバトンテクニックに優れていたのはクラウスと[[ハンス・クナッパーツブッシュ]]であったという。

また、芸術に対する厳しい姿勢もあり、ハンス・ホッターは「舞台上演の後に練習をすることもあった」と語っている。

ウィーン生まれの指揮者で大成した存在は意外と少なく、戦後まで活躍した中で世界的大指揮者の域に達したのは(現在もなお)クラウスとエーリッヒ・クライバーしかいない。クライバーは(息子の[[カルロス・クライバー|カルロス]]もそうだが)ウィーン的伝統とは鋭く対立することが多かったこともあり、クラウスの名は「最後のウィーンの巨匠」として今なお懐旧と畏敬を込めて語られ続けている。
 
== レパートリー ==
クラウスのレパートリーは非常に広範であるが、主に次の3つに大別することができる。すなわち[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]、[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]などの[[ウィーン古典派]]、彼と縁の深い[[リヒャルト・シュトラウス]]、そして[[アルバン・ベルク|ベルク]]、[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]、[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]、[[アルチュール・オネゲル|オネゲル]]、[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]、[[セルゲイ・プロコフィエフ|プロコフィエフ]]といった近現代の作曲家による音楽である。

特にクラウスとリヒャルト・シュトラウスは非常に緊密な関係を保ち、作曲者から「[[アラベラ (オペラ)|アラベラ]]」「[[平和の日]]」「[[ダナエの愛]]」などの初演を任され、シュトラウス最後のオペラである「[[カプリッチョ (オペラ)|カプリッチョ]]」の[[リブレット (音楽)|リブレット]]はクラウスによって書かれ、初演も彼の手に委ねられた。なお、クラウスの妻[[ヴィオリカ・ウルズレアク]]は「アラベラ」の初演でタイトルロールを歌うなど、夫婦揃ってシュトラウス後期の舞台作品を支えたと言ってよい。また、戦前から近現代の作曲家の紹介に非常に積極的だったが、ウィーン国立歌劇場監督時代にベルクの「[[ヴォツェック]]」などの意欲的なレパートリーが保守的な聴衆に歓迎されず、彼の任期を縮めさせる要因になった。ベルリンを拠点に活動していた晩年の[[フランツ・レハール|レハール]]に初のウィーン国立歌劇場初演作品「[[ジュディッタ]]」(最後の作品となった)を依嘱したこともある。オペラという名目になっているが、ミュージカルに近いオペレッタであり、原則オペレッタを上演しない(「[[メリー・ウィドウ]]」ですら1990年代まで取り上げなかった)同劇場としては異例であった。
 
== レコード録音 ==