「高田敏子 (教育者)」の版間の差分

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*[[1910年]](昭和43年)同校を卒業後[[ジャパン・タイムス]]社にタイピストとして勤務する傍ら、英文学の勉学を続ける。
*[[1914年]](大正3年)ハイドロリック・エンジン株式会社に転勤。翻訳、タイピスト等の仕事を続けながら、請われて夜間あるいは土曜日の午後に[[英語]]の個人授業をはじめる。
*[[1919年]](大正8年)退社し、東京麹町中六番町の自宅を改造し、実践的な英会話を教える私立の英語学校、「高田女塾(高田女学院)」を開設。英語、英会話、英文タイプライター科からなり、さらに「子供英語遊び学校」を併設していた。
*[[1923年]](大正12年)9月1日の[[関東大震災]]では被災を免れ、麹町区元園町1丁目33番地に規模を拡大して移転。英文タイプライターやピアノを備えた本格的学校となる。
*[[1929年]](昭和4年)渡英して[[学校]]、[[幼稚園]]を視察。次いでアメリカに渡り、[[ボストン]]で[[エール大学]]等を視察の後、[[オークランドカレッジ]]に入学、次いで[[カリフォルニア大学]]に入学して英文学と児童心理学を学ぶ。
*[[1931年]](昭和6年)帰国。帰国後、高田女塾を「高田女学校」と改称
*[[1934年]](昭和9年)には、東京市麹町区元園町1の49番地に、上京した女性が安心して暮らせるようにと専用の寄宿舎を多額の借金をして建設。
*[[1943年]](昭和18年)文部省の勧告により高田女塾は閉鎖に追い込まれる。その後、空襲により施設は全焼
*[[1945年]](昭和20年)3月10日、東京大空襲により学校施設は全焼。敏子は郷里の三島に疎開する。戦後、疎開先の三島町で、地元の教会を借りて英語学校を再開。
*[[1948年]](昭和23年)には弟夫婦の協力を得て、弟の妻が所有していた神奈川県川崎市内の土地に教会と住居を建設、高田英語学園を開設。子供のための英語教室、日曜学校、日曜礼拝を、友人の牧師や教師らの協力を得ながら進めた。
*[[1954年]](昭和29年)敏子の建てた教会は正式に[[宗教法人]]の認可を得て、高田英語学園と共に、日本キリスト会川崎教会として今日に至っている。