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祖父は河東太守の地位にあった。15歳のときに既に天下への志を有していた。郡に出仕し、孝廉となり、郎中になったが、母の喪のため官を退いた。喪があけると刺史の[[周景]]に別駕従事として招かれたが、周景と意見があわなかったため、受けなかった。その後の官への誘いも断った。
 
太尉である[[李固]]からの招聘に応じ、議郎となり、楽安太守に転じた。楽安郡のある青州の刺史は[[李膺 (後漢)|李膺]]であり、みな李膺の前では一歩引いていたが、陳蕃だけが堂々としていた。郡に周璆という高潔の士がいたが、陳蕃だけが交流することができた。南昌の太守の時に[[徐稚]]という隠士を崇敬し陳蕃はもともと賓客を好まなかったのだが徐稚のためだけに椅子一脚をあつらえ、彼が帰るとその椅子を片付けたという。また、趙宣という人物が孝で評判であったが、陳蕃は趙宣が服喪期間中に5人の子をもうけていたことを咎め、かえって罪に下した。
 
大将軍[[梁冀]]は陳蕃の評判を聞き、使者に詐言を用いさせて陳蕃を招こうとしたが、陳蕃は使者を笞打ちにして殺した。陳蕃は左遷されたが、まもなく尚書となった。中央でも直言を止めなかったため、豫章太守に左遷された。豫章でも高潔で人を寄せ付けない性格は変わらなかった。まもなく尚書令として中央に復帰した。