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'''欧陽 通'''(おうよう とう、? - [[691年]])は、[[唐|初唐]]の[[能書家]]として著名な人物。[[欧陽詢]]の子で、[[高宗 (唐)|高宗]]の[[儀鳳]]([[676年]] - [[679年]])中、官は[[中書舍人]]になった。その後、累進して、[[武則天]]の[[天授 (武周)|天授]]2年(691年)には司礼卿・判納言事となり、[[宰相]]の列に加わったが、間もなく[[張嘉福]]らが[[武承嗣]]を立てて皇太子にしたことに反対したため、武后の怒りに触れて誅殺された。官爵(官職と爵位)は、[[神龍 (唐)|神龍]]2年(706年)に追復されている。
 
父の欧陽詢を'''大欧陽'''、欧陽通を'''小欧陽'''と称される。幼少の時、父を失ったので、母の徐氏から書法を授けられ、その家学を継承した。遺存する作品は、『道因法師碑』(どういんほうしひ)と『[[泉男生]]墓誌銘』(せんだんせいぼしめい)のみである。