「継体・欽明朝の内乱」の版間の差分

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[[昭和時代]]に入って[[喜田貞吉]]が『百済本記』が示した辛亥の年(531年)に重大な政治危機が発生し、その結果として継体天皇の没後に地方豪族出身の[[尾張目子媛]]を母に持つ安閑-宣化系<ref>宣化天皇は安閑天皇の同母弟。</ref>と[[仁賢天皇]]の皇女である[[手白香皇女]]を母に持つ欽明系<ref>欽明天皇は安閑・宣化天皇の異母弟。ただし、母方を通じて[[武烈天皇]]で断絶したそれ以前の皇統の血を引いていることになり、当然母親の格式も高い。</ref>に[[ヤマト王権|大和朝廷(ヤマト王権)]]が分裂したとする「二朝並立」の考えを示した。この考え方は第二次世界大戦後に[[林屋辰三郎]]によって継承され、林屋はそこから一歩進めて継体天皇末期に[[朝鮮半島]]情勢を巡る対立を巡る混乱([[磐井の乱]]など)が発生し、天皇の崩御後に「二朝並立」とそれに伴う全国的な内乱が発生したとする説を唱えた。『日本書紀』はこの事実を隠すためにあたかも異母兄弟間で年齢順に即位したように記述を行ったというのである。
 
だが、『百済本記』は現存しておらず、その記述に関する検証が困難である。更に同書が[[百済]]に関する史書であるため、[[倭国]](日本)関係の記事を全面的に信用することに疑問があるとする見方もある。そもそも辛亥の年に天皇が崩御したのが事実であるとしてもそれが誰を指すのか明確ではないのである(安閑天皇の崩御の年を誤りとすれば、辛亥の年に宣化天皇が崩御して欽明天皇が即位したという考えも成立する)。このため、「二朝並立」や内乱のような事態は発生せず、この時期の皇位継承については継体の崩御後にその後継者(安閑・宣化)が短期間(数年間)で崩御して結果的に継体→安閑→宣化→欽明という流れになったとする『日本書紀』の記述を採用すべきであるという見方を採る学説も有力である。更に「二朝並立」を支持する学者の中でも必ずしも林屋の説を全面的に支持されているわけではない。例えば、林屋は欽明天皇の背後に天皇と婚姻関係があった[[蘇我氏]]がおり、安閑・宣化天皇の背後にはこの時期に衰退した[[大伴氏]]がいたと解釈するが、背後関係を反対に捉える説をはじめ、継体天皇とその後継者を支持する地方豪族と前皇統の血をひく欽明天皇を担いで巻き返しを図るヤマト豪族との対立<ref>継体天皇は遠い皇孫でありながら[[近江国|近江]]・[[越前国|越前]]を根拠として、[[武烈天皇]]崩御後の混乱の後に実力で皇位に就いた。『日本書紀』には平穏な即位が謳われているが、実際には[[大和国|大和]]入りに20年もかかっていることから即位に反発する勢力も存在して政情不安を抱えていたとみられている。</ref>とみる説、臣姓を持つ豪族と連姓を持つ豪族の間の対立とみる説などがある。
 
継体天皇から欽明天皇の時代にかけては、[[仏教公伝]]や[[屯倉]]の設置、[[帝紀]]・[[旧辞]]の編纂、[[和風諡号]]の導入、[[武蔵国造の乱]]など、その後の倭国(日本)の歴史に関わる重大な事件が相次いだとされており、「二朝並立」や内乱発生の有無がそれらの事件の解釈にも少なからぬ影響を与えるとみられている。
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<references/>
== 参考文献 ==
*直木孝次郎「継体・欽明朝の内乱」(『国史大辞典 5』(吉川弘文館、1985年) ISBN 978-4-642-00505-0)
*川口勝康「継体・欽明朝の内乱」『日本史大事典 2』(平凡社、1993年) ISBN 978-4-582-13102-4
*大平聡「継体・欽明朝の内乱」『日本歴史大事典 1』(小学館、2000年) ISBN 978-4-09-523001-6