「桓宗 (西夏)」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m r2.6.4) (ロボットによる 変更: zh:西夏桓宗 |
編集の要約なし |
||
16行目:
|没年 =[[1206年]]
|父 =[[仁宗 (西夏)|仁宗]](長子)
|母 =章献欽慈皇后羅氏
|皇后 =
|陵墓 =庄陵
27行目:
桓宗の政策は先代の仁宗の政策を継承したものであり、国内的には民力の涵養を、対外的には[[南宋]]及び[[金 (王朝)|金]]との共存に努めた。
[[1200年]]に母・羅太后が病に罹ると、金から医師を呼び薬を処方させた。
[[1205年]]、[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]率いる[[モンゴル]]軍の侵攻が始まると、国内は不安定化、桓宗は[[金 (王朝)|金王朝]]と協力してモンゴルに対抗することを兼用したが、それに反対した
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 『[[金史]]』巻134、列伝72、外国上
* 『[[宋史]]』巻486、列伝245、外国2、夏国下
{{先代次代|[[西夏]]の[[中国帝王一覧|皇帝]]|第6代:1193年 - 1206年|[[仁宗 (西夏)|仁宗]]|[[襄宗 (西夏)|襄宗]]}}
|