「今出川伊季」の版間の差分

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'''今出川 伊季'''(いまでがわ これすえ、[[万治]]3年[[5月29日 (旧暦)|5月29日]]([[1660年]][[7月6日]]) - [[宝永]]6年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]([[1709年]][[4月5日]]))は、[[江戸時代]]前期から中期にかけての[[公卿]]。主に[[霊元天皇]](112代)・[[東山天皇]](113代)の二帝にわたり仕え、官位は[[正二位]][[内大臣]]まで昇った。父は[[右大臣]][[今出川公規]]。母は[[刑部省|刑部少輔]][[京極高和]]の娘。子に[[近衛府|左近衛中将]][[今出川公香]](のち無位無官)、[[近衛府大納言|権大納言]][[今出川公詮]]がいる。
 
[[寛文]]元年([[1661年]])に叙爵。以降[[清華家]]当主として速いスピードで累進し、[[侍従]]・[[近衛府|左近衛少将]]・[[近衛府|左近衛中将]]を経て、[[延宝]]3年([[1675年]])には[[従三位]]となり、[[公卿]]に列する。延宝6年([[1678年]])には[[中納言|権中納言]]と[[神宮伝奏]]に就任。[[貞享]]元年([[1684年]])に[[大納言|権大納言]]となる。貞享4年([[1687年]])には[[皇太子]]朝仁親王の[[春宮大夫]]に任じられるも同年中に[[皇太子]]が[[東山天皇]]として[[即位]]したので辞す。[[元禄]]2年([[1689年]])には権大納言を辞したが、元禄6年([[1693年]])には権大納言と[[神宮伝奏]]に再任する。元禄12年([[1699年]])には[[近衛大将|右近衛大将]]・[[馬寮|右馬寮御監]]となる。宝永5年([[1708年]])には[[内大臣]]に就任するも辞す。晩年には京を離れて[[遠江国]][[金谷]]へ隠遁し、同地で去。
 
なお子息の公香は、[[従三位]][[近衛府|左近衛中将]]まで昇るも突然に[[官位]][[官職]]を返上して、無位無官の一般人になってしまう。そのため次男である公詮の家系が今出川家を継いでいくことになる。
 
伊季は、[[琵琶]]の名手としても知られた。琵琶にまつわるこんな逸話がある。ある時、[[醍醐天皇]]の愛用品と伝わる琵琶を所蔵する者がいることを知った伊季はこの者のところへ通ってその琵琶を貸してほしいと頼みこんだ。しかし先方にとっても秘蔵の宝であるから拒否された。それでも諦めきれない伊季は今度は[[北野天満宮]]に通って借りられるようにと毎日祈りをささげるようになった。たとえ暴風雨の日であっても怠ることなく毎日通ったという。この話を聞いて恐れ入った相手方はとうとうこの秘蔵の琵琶を伊季に渡したのだという。
 
== 関連項目 ==
* [[菊亭家|今出川家]]