「アントニ・ファン・レーウェンフック」の版間の差分

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[[File:Jan Vermeer - The Astronomer.JPG|thumb|right|230px|ヨハネス・フェルメール『[[フェルメールの作品#天文学者|天文学者]]』。レーウェンフックがモデルとされている。]]
[[File:The Geographer.jpg|thumb|right|230px|[[ヨハネス・フェルメール]]『[[フェルメールの作品#地理学者|地理学者]]』。同上。]]
'''アントニ・ファン・レーウェンフック'''('''Antoni(Antoni van Leeuwenhoek''' [[1632年]][[10月24日]] - [[1723年]][[8月26日]])は[[オランダ]]のアマチュア[[生物学]]。歴史上はじめて[[顕微鏡]]を使って[[微生物]]の世界見た人物であり観察し、「[[微生物学]]の父」とも称せられる。
 
== 年譜 ==
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レーウェンフックは専門的教育を受けていなかったが、自作の顕微鏡で大量の生物学上の発見をした。彼の顕微鏡は、径1mm程度の球形のレンズを、金属板の中央にはめ込んだだけの単眼式のものであった。資料を載せる針はねじ式に微調整できるようになっていた。生涯に作った顕微鏡の数は500にもなるとも言われる。それらを用いて身近なものを覗いて回り、様々なものを見て感動していた。この中には、当時の生物学専門家には知られていなかった新発見が多数含まれていたが、彼はそれらの成果を発表する場を持たなかった。
 
レーウェンフックの観察を[[王立協会|ロンドン王立協会]]に紹介したのは、デルフトの[[解剖学]]者Reinier de Graafが送った1673年の書簡が初めである。そのすぐ後にオランダの政治家・文筆家であるConstantijn Huygens(コンスタンティン・ホイヘンス([[クリスティアーン・ホイヘンス]]の父)が[[ロバート・フック]]に個人的に紹介の手紙を送っている。この年以降、継続的に王立協会に観察記録を送り続けた。彼は学問がなかったため、手紙の報告は日常的なオランダ語によるものであった。これを実験担当のフックが認め、[[ラテン語]]訳してレーウェンフック全集として発刊した。また、[[1680年]]に王立協会会員としても迎えられた。
 
[[1674年]]、池の水を観察していたレーウェンフックはこれまで誰も報告したことのない奇妙な動く物体を発見。生物であるという証拠はなかったが、微小動物(animalcule)と名付けた。このとき顕微鏡の倍率は約200倍に達していた。
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==レーウェンフックの顕微鏡==
レーウェンフックは生涯500もの顕微鏡を作ったとされ、現在彼の真作とされる顕微鏡はヨーロッパの博物館に9個残されている。1980年代にレンズ精度が調査され、[[分解能]]は1.35μmから4μmであった。8個の顕微鏡のうち5個が100倍以上、最高の倍率は266倍であった。レーウェンフックはレンズの製造技術を秘密にしたが、当初のガラスを研磨してレンズを作る製法から、細いガラス管をバーナーで加熱して先端を溶かして小球状にする方法を用いるようになったと推測されている<ref>『[[細胞発見物語]]』山科正平著(ブルーバックス、2009年10月)ISBN 9784062576550</ref>。
 
== レーウェンフック・メダル ==