「小栗貞雄」の版間の差分

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1861年(文久元年)[[豊後国]]([[大分県]])[[海部郡 (豊後国)|海部郡]]生まれ。[[佐伯藩]]士、矢野光儀の子で、[[矢野龍渓]]の弟。1870年(明治3年)、父にしたがい上京し[[慶應義塾]]、[[第一高等学校 (旧制)|大学予備門]]へ進学。[[立憲改進党]]の弁士として活躍した。その後、[[錦城高等学校 (私立)|三田英学校]]講師となり、1886年(明治19年)[[郵便報知新聞|報知新聞]]の経営再建の為に[[報知新聞社]]に入社し、ジャーナリストとして健筆を振るう 。
 
1886年(明治19年)12月、大隈重信や矢野龍渓の強い勧めにより[[幕臣]][[小栗忠順]]の娘国子と結婚し、婿養子として小栗の姓を継ぐ。その後は実業家に転身し、[[東京石油]]株式会社取締役を経て、[[アルボース]][[消毒薬]]を発明し、製造メーカーである扇橋製薬株式会社を創業設立し社長に就任。しかし[[樟脳]][[専売法]]の施行にともない医療事業を[[台湾総督府]]に売却した。この間の1898年(明治31年)には、[[第6回衆議院議員総選挙]]に大分県第二区から[[憲政本党]]公認で出馬し当選、[[衆議院議員]]となり一期を務める。1900年(明治33年)、商用にて[[清|清国]]に渡航、[[上海市|上海]]を経て、[[天津市|天津]]滞在中に[[義和団の乱|北清事変]]に遭遇し籠城を余儀なくされるが籠城期間中に功績があり、帰国後、[[明治天皇]]より一時金を賜う。
 
政界引退後は、実業界で活躍する一方、報知新聞などにて、社会[[福祉]]の充実を訴え[[産児制限]]論を発表したり、[[加藤時次郎]]、[[鈴木梅四郎]]らとともに、[[社団法人]][[実費診療所]]を設立するなど、日本における福祉推進、[[医療]]の社会化に貢献した。