「アゴタ・クリストフ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m 写真の挿入
Template:亡くなったばかりの人物(| date=2011-07-29 03:31)を削除、日本語の死亡記事へのリンクを追加、ほか微調整(節:証言は引用?引用元も日本語?)
1行目:
{{亡くなったばかりの人物| date=2011-07-29 03:31}}
{{ハンガリー人の姓名|クリシュトーフ|アーゴタ}}
{{文学}}
'''クリシュトーフ・アーゴタ'''('''Kristóf Ágota''' [ˈkriʃtoːf.ˈɑ̈ːɡotɒ], [[1935年]][[10月30日]] - [[2011年]][[7月27日]])は、[[ハンガリー]]出身の専ら[[スイス]]で活動した[[作家]]。日本では専らフランス語からの訳で紹介されているため'''アゴタ・クリストフ''' (''Agota Kristof'') として知られている。
[[ファイル:Agota Kristof.jpg| thumb |クリシュトーフ・アーゴタ]]
'''クリシュトーフ・アーゴタ'''('''Kristóf Ágota''' [ˈkriʃtoːf.ˈɑ̈ːɡotɒ], [[1935年]][[10月30日]] - [[2011年]][[7月27日]])は、[[ハンガリー]]出身の専ら[[スイス]]で活動した[[作家]]。日本では専らフランス語からの訳で紹介されているため'''アゴタ・クリストフ''' (Agota Kristof) として知られている。
 
[[1956年]]の[[ハンガリー動乱]]で[[オーストリア]]に脱出し、[[スイス]]に定住したために日本では「[[亡命]]作家」と見なされがちであるが、本人は[[ハンガリー]][[国籍]]も保持しており、また出国してから12年後には帰国も果たしており「亡命作家」と言うよりはむしろ「[[難民]]作家」とみなすべきであろう。生計のために専ら移住先のフランス語で執筆したが、母語であるハンガリー語に対する思い入れと、ハンガリー人意識は最後まで非常に強かったことは様々なインタビューなどからも読み取れる。
 
== 人物 ==
[[ファイル:Agota Kristof.jpg| thumb |クリシュトーフ・アーゴタ]]
[[1935年]][[ハンガリー王国]] ジェール・モション・ポジョニュ臨時合併城県 Győr(Győr, Moson és Pozsony közigazgatásilag egyelőre egyesített vármegye(vármegye、現[[ジェール・モション・ショプロン県]] (Győr-Moson-Sopron megye)megye))ショコローアイヤ郡(sokoróaljai sokoróaljai járás(járás、現テート郡 (téti kistérség)kistérség))チクヴァーンド村 (Csikvánd község) 生まれ。父親は村の小学校の訓導(教諭)だった。9歳のときに[[ヴァシュ県]] (Vas vármegye) ケーセグ市 (Kőszeg város) に転居。そこで父親は政治犯として逮捕・投獄される。ケーセグ市には高等女学校がなかったため、県庁所在地であるソンバトヘイ市 (Szombathely város) にある寄宿生高等学校に進学する。高校生時代に作詩を始める。卒業直後の1954年に高校時代に歴史を習っていた教師と結婚。
 
21歳のとき、[[1956年]]の[[ハンガリー動乱]]から逃れるため、夫と共に生後4か月の娘を連れ、[[オーストリア]]を経て[[スイス]]の[[フランス語圏]][[ヌーシャテル]]に[[移住]]した。当初、時計工場で働き始め、後に店員、歯科助手を勤める。
 
やがてパリで刊行されているハンガリー語文芸誌の『文芸新聞』(Irodalmi Újság イロダルミ・ウーイシャーグ)や『ハンガリー工房』(Magyar Műhely マジャル・ミューヘイ)にハンガリー語で詩を発表し始めるが、多くの作品は出版されることはなかった。やがて、生計を立てるためには現地の言葉で作品を発表する必要があると一念発起して、[[フランス語]]で執筆を開始し、[[1986年]]『[[悪童日記]]』でフランス語文壇デビューを果たす。この作品は世界で40以上の言語に翻訳され、同時に世界的にも注目される作家となった。
 
16 ⟶ 17行目:
『悪童日記』は、双子の少年達が戦時下の田舎町で成長し自立していくさまを描いており、一人称複数形式(「ぼくら」)を用いて成功した稀有な小説として知られている。以後、『ふたりの証拠』『第三の嘘』をあわせて完成させた三部作が彼女の代表作。彼女の小説には亡命の厳しい体験が反映されている。
 
2011年7月27日、移住先のスイス・ヌーシャテルにての自宅で死去。75歳没<ref>[http://www.elgolfo.info/elgolfo/nota/77515-muere-en-suiza-la-escritora-agota-kristof/ Muere en Suiza la escritora Ágota Kristof] El Golfo 2011-7-27</ref>。{{没年齢|1935|10|30|2011|7|27}}<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/national/obit/news/20110730-OYT1T00501.htm アゴタ・クリストフ氏=ハンガリー出身の作家 : おくやみ : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)]</ref><ref>[http://mainichi.jp/select/person/news/20110802ddm041060080000c.html 訃報:アゴタ・クリストフさん 75歳=ハンガリー出身の女性作家 - 毎日jp(毎日新聞)]</ref>
 
== 小説 ==
40 ⟶ 41行目:
 
== 受賞 ==
* [[オーストリア・ヨーロッパ文学賞| ヨーロッパ文学のためのオーストリア国家賞]] ([[2008年]])
* [[ハンガリー]]・コシュート賞 ([[:hu:Kossuth-díj|Kossuth-díj]]) ([[2011年]])
 
== 証言 ==
'''; チクヴァーンドから中国までの道 (Az út Csikvándtól Kínáig)'''<ref>ペテーフィ文学館 ([[:hu:Petőfi Irodalmi Múzeum|Petőfi Irodalmi Múzeum]]) において2009年 [[10月1日]]に開催された講演会での発言。採録はペテーツ・アンドラーシュ ([[:hu:Petőcz András|Petőcz András]])。「[http://www.es.hu/;az_ut_csikvandtol_kinaig;2009-10-24.html チクヴァーンドから中国までの道 (Az út Csikvándtól Kínáig)]」週刊『生活と文学』([[:hu:Élet és Irodalom|Élet és Irodalom]]) 2009年10月22日号</ref>
: "''確か、どこかで1956年に国を出て必ずしも人生が良くなったわけではないとおっしゃっていたようですが?''
:: その通りです。いつも私はそう言ってきました。.
: ''ハンガリーで作家になった方が良かったと?''
:: その通りです。"
 
'''; 『文盲』(L’analphabète) より'''
'''チクヴァーンドから中国までの道 (Az út Csikvándtól Kínáig)'''<ref>ペテーフィ文学館 ([[:hu:Petőfi Irodalmi Múzeum|Petőfi Irodalmi Múzeum]]) において2009年 [[10月1日]]に開催された講演会での発言。採録はペテーツ・アンドラーシュ ([[:hu:Petőcz András|Petőcz András]])。「[http://www.es.hu/;az_ut_csikvandtol_kinaig;2009-10-24.html チクヴァーンドから中国までの道 (Az út Csikvándtól Kínáig)]」週刊『生活と文学』([[:hu:Élet és Irodalom|Élet és Irodalom]]) 2009年10月22日号</ref>
: フランス語を使うようになって30年以上、作品を書くようになって20年以上が経ちますが、未だにフランス語はよくわかりません。フランス語で間違わずに話すことはできませんし、しょっちゅう辞書で確認しながらでないと正しい文章が書けません。だから、私はフランス語のことも敵性言語だと呼んでいます。実は、フランス語をそのように呼ぶのにはもう1つ理由があるのですが、こちらの方がずっと深刻です。つまり、フランス語は私の母語を殺し続けているのです。
 
"''確か、どこかで1956年に国を出て必ずしも人生が良くなったわけではないとおっしゃっていたようですが?''
 
:その通りです。いつも私はそう言ってきました。.
 
''ハンガリーで作家になった方が良かったと?''
 
:その通りです。"
 
'''『文盲』(L’analphabète) より'''
 
フランス語を使うようになって30年以上、作品を書くようになって20年以上が経ちますが、未だにフランス語はよくわかりません。フランス語で間違わずに話すことはできませんし、しょっちゅう辞書で確認しながらでないと正しい文章が書けません。だから、私はフランス語のことも敵性言語だと呼んでいます。実は、フランス語をそのように呼ぶのにはもう1つ理由があるのですが、こちらの方がずっと深刻です。つまり、フランス語は私の母語を殺し続けているのです。
 
== 脚注 ==