「板垣退助」の版間の差分

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* 同様の主旨で、当時の人が[[食べ合わせ]](「うなぎと梅干」、「てんぷらと西瓜」など)を食べると死ぬと信じていた[[迷信]]に対して、自ら人を集めて食べて無害なことを実証したことがある。
* 自らの命を狙われた[[岐阜事件|岐阜遭難事件]]の犯人である相原尚褧に対して、退助自身が特赦嘆願書を[[明治天皇]]に提出し、結果、相原尚褧は特赦となり、その後改心した相原は、退助に謝罪に訪れている。<ref>『板垣退助君伝記』第4巻、宇田友猪著、明治百年史叢書、[[原書房]]、2009年</ref>
* 家屋敷を売り払い、私財を擲って[[自由民権運動]]に身を投じた退助は、晩年金銭的に困窮していたと伝えられている。[[1911年]](明治44年)頃、人を介して秘かに[[杉山茂丸]]に刀を売ろうとした。茂丸が鑑定すると、備前大宮の初代「盛重」という名刀であり、茂丸は「これは何処で手に入れたか?」と、刀を持ち込んだ人に問うと、最初は躊躇ったものの遂に「実は板垣伯から君(茂丸)を名指しで、『買い取って貰うように』と頼まれ持参した」と打ち明けられた。驚いた茂丸は「この刀は伯が維新の際にその功により、拝領したものだと聞いているが…」と言う嘆息するエピソードがある。<ref>『[[杉山茂丸伝]]』、野田美鴻著、島津書房、1992年</ref>
* 板垣家の宗旨は[[曹洞宗]]であり、葬儀は遺志により仏式で行われたが、自身は[[プロテスタント]]でもあり、同郷の[[片岡健吉]]・[[坂本直寛]]の受洗などに多大な影響を与えた。