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'''フランシスクス・シルヴィウス'''(Franciscus Sylvius、[[1614年]][[5月11日]] - [[1672年]][[11月19日]])はドイツ、[[ハーナウ]]生まれのオランダで活躍した[[医師]]である。
 
シルヴィウスは[[ラテン語]]名で本名、Franz de le Boëである。[[カンブレー]]出身の裕福な家に生まれた。[[ダン]]の[[プロテスタント]]系のアカデミーで学んだ後、[[ライデン大学]]でフォルシュティウス(Adolph Vorstius)、ヘールニウス(Otto Heurnius)のもとで医学を学んだ。[[イエナ大学]]やヴィッテンベルクで修行を積んだ後、1637年、[[バーゼル大学]]で医学の博士号を得た。ハーナウで医者をした後、1639年に[[ライデン]]に戻り、教師となった。1641年から[[アムステルダム]]で医療を始め、その間、薬剤師、化学者の[[ヨハン・ルドルフ・グラウバー]]に会い化学の知識を得た。1658年にライデン大学の医学教授となり、1669年からは副学長を務めた。彼の教えを受けた学生にはヤン・スワンメルダム(Jan Swammerdam)、 ライネル・デ・グラーフ(Reinier de Graaf)、[[ニコラウス・ステノ|ニールス・ステンセン]](Niels Stensen)などがいる。
 
実証的な医学のパイオニアで[[ウイリアム・ハーベー]]の[[血液循環説]]の支持者であり、ライデン大学に化学実験室を設けた。脳の解剖学研究を行い、脳の[[外側溝]](シルヴィウス溝)や中脳水道(シルビウス孔)に名前がつけられている。1671年に主著''"Praxeos medicae idea nova"''を発表した。